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水俣曼荼羅

今秋より、渋谷 シアター・イメージフォーラム他全国順次公開今秋より、渋谷 シアター・イメージフォーラム他全国順次公開
監督:原一男
エグゼクティブ・プロデューサー:浪越宏治
プロデューサー:小林佐智子 原一男 長岡野亜 島野千尋
編集・構成:秦 岳志  整音:小川 武
助成:文化庁文化芸術振興費補助金 (映画創造活動支援事業)
独立行政法人日本芸術文化振興会
製作・配給:疾走プロダクション 配給協力:風狂映画舎
2020年/372分/DCP/16:9/日本/ドキュメンタリー
©疾走プロダクション
ハッシュタグ#水俣曼荼羅
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特報

コメント

<五十音順・敬称略>

  • 6時間の映画が映し出す16年の歳月。
    時が刻む変化と不変に、もだえ、笑い、立ちすくむ。
    秋山珠子
    立教大学アジア地域研究所研究員・字幕翻訳者
  • 6時間半、一度も長いと感じなかった。これが先ず不思議だ。この映画の背負っているものが、今の日本の、多分世界の苛立ちを背負っているからだろう。患者さんたちと裁判闘争の支援者たちとこの映画は、苛立ちながらも長い間を共に支えながら生きて来た、そして遂に闘争の目的を達成した(最高裁に勝訴した)、と思った瞬間、いや振り出しに戻っている、と気付く。そこまでを撮り続けた。だから、かもしれない。今やアベスガ首相によって代表される、全てを法解釈によって何事もなかったかのように切り抜ける悪知恵たち。これが大手を振って世の中を支配する様を映画は最後に明らかにして終わる。

    それにしても何という原監督の患者さんたちとのやり取りだろう! アスベストを取り上げた(『ニッポン国VS泉南石綿村』)のとき、首相官邸の前で現代の悪に押し戻される老齢の被害者たちを、自分の監督の立場を勘ぐり捨てるようにして一歩前へ出た、あのシーンを思い出す。あの原監督を、今回も僕たちは見ることが出来るのだ、数々のシーンで。

    しかし、あの時と比べ(時間的前後の問題ではなく)、今回の映画ではさらに奥行きのある原演出を見ることができる。ここに登場する、我が恋愛の数々をアッケラカンと語る女性患者への演出のことである。彼女が楽しそうに、誇らしげに我が恋愛を語るシーンだ。子どもの頃から差別に晒されてきた患者とその妻の初夜についてのシーンは実に重厚であり面白く、しかも真情溢れるものである。劇映画は遠く及ばない。そこに、人生幾多の経験を経た監督自身の人間への温かい切り込みを僕は見た。それらが随所に散りばめられる構成である。そこにも僕はこの映画の6時間半、その成功を見た。

    池田太郎
    脚本家
  • 「水俣」は既に「歴史の一コマ」だ――ほとんどの日本人がそう思っているだろう。私もそうだった。このドキュメンタリーを観て、「水俣」がまさに現在進行形の問題であることに目を見開かされた。しかも、それは、人権と法の支配の蹂躙、事実の隠蔽と科学的探究の歪みという、いまの日本全体を覆う問題と直結している。6時間超の作品だが、人間の美しさと醜さ、強さと弱さが滲み出る登場人物たちの生々しい言動に魂を揺さぶられ、始めから終わりまでスクリーンにくぎ付けにされた。15年余の歳月をかけて「水俣のいま」を記録し続けた原監督の情熱と尽力に喝采を送りたい。
    井上達夫
    法哲学者・東京大学名誉教授
  • “水俣”を知らない人はもちろん、“水俣”を知ってるという人もこれを観よ!
    タブーこそを撃つ原一男が撮り・描く熾烈なMandara
    今井一
    ジャーナリスト
  • 「水俣病は終わらない」と言われるが、水俣の記録映画も、土本典昭の畢生の作品群をもってしてもまだ終えられぬのだと、この映画は新たな知見をもって教えてくれる。
    岡田秀則
    国立映画アーカイブ主任研究員
  • ドキュメンタリーの凄みに撃たれました。
    「水俣病」の映画であることを突き抜けて可笑しみや、悲しみを背負う「人間」が、途轍もなく生(なま)のまま、迫ってきました。
    原一男監督の底力、凄し!
    神藏美子
    写真家
  • 原一男からは過激さは消えた、そう思っていた。
    15年間の取材により、土本典昭とはまた異なる新たな形で水俣が終わらない闘争として提示される。
    穏やかなまなざしで被写体と向き合いながら、私たちを闘争へ誘う原一男は未だ現役の「過激な」映画作家として生きていたのだ。
    小城大知
    広島大学映画研究会 会長兼プログラム・ディレクター
  • カメラを媒介につながっていく幾多の魂たちの共振に深く揺さぶられる。映画館を出て日常がその波を鎮めようとするとき、自分は理不尽なまでに頑なな国を作ってきた一員に他ならないと気づく。闘いはまだ終わっていない。
    木下雄介
    映画監督
  • 2004年の秋、最高裁でチッソ水俣病関西訴訟の判決があり、「国と熊本県にも水俣病に責任がある」ということが、その日初めて確定した。その判決日から、原監督とスタッフは水俣病を撮り始めた。患者勝訴判決で水俣病が解決に向かうなら、それは遅すぎた取材だったかもしれない。ところが、その後も水俣の闘いは有為転変、いまも新潟水俣病含め約2000人が患者認定を申請中で、裁判も8件が係争中である。

    カメラは、判決後の関西原告の姿を丁寧に追う。そこで医学像も問いつつ、続いて水俣現地での患者の暮らしや引き続く数々の訴訟をも描く。たびたびの勝訴判決、それでもなお、救済枠に収まり切れない被害。「水俣病は終わっていない」と私たちは言挙げし続けているが、百聞は一見に如かず。終わらぬ所以はこの映画の中で様々に開示される。

    試写を観ながら「患者さんの世界は、光っている」という、20世紀の水俣病を撮り続けた故・土本典昭監督の言葉を思い出した。認定患者にも、未認定患者にも、水俣病の苦難と闘いは続いているけれど、それはまた、滋味にあふれ時に微笑ましい、海と地面に近いところで実直な暮らしを営み続ける人々の物語でもある。それが、原一男監督が記録した21世紀にも続いているのだ。一部で誤解を招いた「メチル水銀は人間性を損なう」との言説も、被害者たちの豊かな語りと映像の中で実証的に克服されたとみることもできる。

    十数年撮り続けた映像を濃密に圧縮した三部作。6時間余は、あっという間だった。

    久保田好生
    東京・水俣病を告発する会、
    季刊「水俣支援」編集部
  • 水俣病のドキュメンタリーでありながら、個々の人たちの「やさしさ、かなしさ、おかしさ、たくましさ」を原監督は引き出していく。そのために、最低限この長さが必要だったのだろう。泣いたり笑ったりの6時間12分でした。
    末井昭
    エッセイスト
  • 「水俣曼荼羅」。この映画は単に水俣病のことを描いているドキュメンタリーではないと私は思います。足尾鉱毒事件から4大公害事件など、この国に住む国民の人権が蔑ろにされてきたことに焦点が当たっていると感じます。公害だけではなく、原爆症や空襲被害者、原発事故被害者、さらにはハンセン病、アイヌ民族など。憲法に規定された基本的人権がいとも簡単に軽視されてきたこの国の歴史にこの映画は光を当てているとさえ私には感じます。これは自然保護の現場でも起きていることです。多くの方にこの映画を見て頂き、人権について考えて頂きたいと思います。

    辻村千尋
    自然保護アナリスト・れいわ新選組
  • 人々の声が、目が、全ての動きが372分ノンストップで容赦なく語りかけてくる。ああ、どうしよう、息をするのも忘れてしまいそうになる。原監督、これは一体何が起こっているのですか? エモーショナルに襲われる!
    睡蓮みどり
    女優・文筆家
  • 水俣曼荼羅では、原一男監督の温厚で優しい感じが印象に残る。それは今までの作品の中でおしなべて見てきたような熱血を帯びて焦燥感に駆られた姿勢ではなく、むしろ柔らかな眼差しと言ったらいいのだろうか。おそらく今作では、監督が水俣病問題を風化させてなるものか、無関心ではいられないだろうと時間を掛けて取り組んでいる中で、長い年月の労苦による被害者たちの弱り果てた心に触れていくうちに、ドラマチックな場面を模索する歯がゆさやもどかしさを越えた、言わば達観の境地に至られたからなのではないだろうか。そう考えると、私たちは水俣病問題の底知れぬ深刻さと長きに亘る重い歴史を、むしろ監督のたまさかに穏やかな視線によってより一層感じ取り、その厳しさを痛切に思い知らされる。だから、水俣曼荼羅は、監督にとって新境地を開いた重要な作品なのだと思う。
    林加奈子
    フリー
  • 『水俣曼荼羅』には、最高裁判決にまでいたった水俣病関西訴訟と水俣病溝口訴訟が描かれている。『ニッポン国VS泉南石綿村』の泉南アスベスト訴訟も含めれば3つも、最高裁で国を相手に被害者側が勝訴した稀有な裁判を取り上げながら、原一男監督は、それが必ずしも快刀乱麻の解決を意味するのではない現実を丁寧に伝えている。一般にメディアや学者らは被害者が裁判を起こすことを期待するが、現実には裁判を通じてしか争えないという事情が被害者を束縛する面も多いと感じている私にとっては、共感できる立場である。

    それでも『…泉南石綿村』の場合には、裁判を中心にしながらひとつの物語にまとめることができた(それでも215分)のに対して、『水俣曼荼羅』ではそうはいかなかった結果の372分なのだろうと思った。水俣には非常にいろいろな面ですでに複雑な長い歴史があることが大きいと思いつつも、理由をあれこれ考えるうちに、むしろ逆に『…泉南石綿村』や他の被害者の物語も『水俣曼荼羅』のように描くことができるだろうと考えるようにもなっている。

    『水俣曼荼羅』を東京フィルメックスで観たちょうど一年前、私は坂本しのぶさん、佐藤スエミさんらとともに、韓国のソウルで開催された労災・公害被害者の権利のためのアジア・ネットワークの会議に参加していた。そこでは、受動的なビクテム(被害者)ではなく、能動的なサバイバー(生存者)としての積極的な役割と権利、そして文化の創造が宣言された。『水俣曼荼羅』は、そのことの意味をさらに深く考える機会を与えてくれている。

    古谷杉郎
    全国労働安全衛生センター連絡会議事務局長
    石綿対策全国連絡会議事務局長
    アジア・アスベスト禁止ネットワーク(A‐BAN)
    コーディネーター
  • この作品を見たすべての人にとって、この6時間の映画体験は今まで体験してきたどの6時間ともまったく違ったものになるでしょう。
    人間とはいかなる生き物か、本当の人間の豊かさとはなにか、そして本当の人間同士の豊かな関係性はどこで生まれるのかが、頭ではなく心で、明確に分かってしまう作品。 6時間、あっとういう間です。
    堀澤DON元
    ガラクタらじお・ガオガオ
  • 『さようならCP』(1972)から『ニッポン国VS泉南石綿村』(2017)まで、そして一般公開間近の『水俣曼荼羅』まで、主要な被写体が異色の個人であっても、「ふつう」の生活者たちであっても、原一男監督の映像はいつも、概念化できない現実を、あらゆるストーリーからはみ出してしまう人間の相貌を可視化してくれる。その一つひとつのリアリティというか、唯一無二性にたちまち引き込まれてしまうので、たとえ6時間を超える長尺であっても、原監督のドキュメンタリーならば、私は始めから終わりまで一気に観てまったく飽きることがない。

    なお、『ニッポン国VS泉南石綿村』が大阪府泉南のアスベスト訴訟の記録であったように、『水俣曼荼羅』は、水俣病の認定と補償をめぐって被害者の患者たちが「国」を相手取った訴訟を記録している。観客のわれわれは中立だろうか。むしろ患者や医者の姿に感情移入し、患者の訴訟団の前に立ちはだかる「国」を心中、敵視するのではないだろうか。しかし、日本が曲がりなりにも国民主権国である以上、政府の役人や大臣によって「体現」される「国」は、実は〈われわれの〉国家なのである。この居心地の悪い事実を忘れてはならないだろうと思う。

    堀茂樹
    フランス文学者、慶應義塾大学名誉教授
  • 『水俣曼荼羅』は、どの角度から見ても「原一男らしくない」作品だろう。欧米の一流映画祭が追求する、映像アーカイヴの使用に堪能な高度にスタイル化されたエッセイ映画や、各種の映画祭ピッチイベントを通して、人気トピックを題材にして成功したドキュメンタリー映画などに比べると、『水俣曼荼羅』は、長年に渡り磨かれたその手腕のおかげで「手作り」の醍醐味に満ちている。グローバル化時代に注目されていない「水俣病」をテーマにすることから見ても、この映画は実に「頑固」な一作だと考えられる。しかし、映画における、もはや若くない原監督が水中撮影をする姿に感動した。私にとって、彼の水中の姿は既に象徴的なイメージになっている。このイメージから、原監督のアクションドキュメンタリーに見いだせるものは、単なるドキュメンタリー作家が「対象─主体」に介入する勇気だけではなく、どんな状況でもカメラを持ち込んで、自らに試練を課す直感と行動力だと意識した。それは、年齢と関係していない。おそらく、ドキュメンタリーに対する原監督の信念に関わっている─それ自体すら原一男然としていると感じるのだ。この点について、私は最大の敬意を表する。
    馬然
    名古屋大学准教授(映像学)
  • 64年前、九州水俣で起こった日本最大の公害事件の様子を、知ってもらいたいのです。この社会では明日起こるかも知れません。
    山口紀洋
    水俣病患者二世代訴訟弁護団
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