『水俣曼荼羅』には、最高裁判決にまでいたった水俣病関西訴訟と水俣病溝口訴訟が描かれている。『ニッポン国VS泉南石綿村』の泉南アスベスト訴訟も含めれば3つも、最高裁で国を相手に被害者側が勝訴した稀有な裁判を取り上げながら、原一男監督は、それが必ずしも快刀乱麻の解決を意味するのではない現実を丁寧に伝えている。一般にメディアや学者らは被害者が裁判を起こすことを期待するが、現実には裁判を通じてしか争えないという事情が被害者を束縛する面も多いと感じている私にとっては、共感できる立場である。

それでも『…泉南石綿村』の場合には、裁判を中心にしながらひとつの物語にまとめることができた(それでも215分)のに対して、『水俣曼荼羅』ではそうはいかなかった結果の372分なのだろうと思った。水俣には非常にいろいろな面ですでに複雑な長い歴史があることが大きいと思いつつも、理由をあれこれ考えるうちに、むしろ逆に『…泉南石綿村』や他の被害者の物語も『水俣曼荼羅』のように描くことができるだろうと考えるようにもなっている。

『水俣曼荼羅』を東京フィルメックスで観たちょうど一年前、私は坂本しのぶさん、佐藤スエミさんらとともに、韓国のソウルで開催された労災・公害被害者の権利のためのアジア・ネットワークの会議に参加していた。そこでは、受動的なビクテム(被害者)ではなく、能動的なサバイバー(生存者)としての積極的な役割と権利、そして文化の創造が宣言された。『水俣曼荼羅』は、そのことの意味をさらに深く考える機会を与えてくれている。

古谷杉郎

全国労働安全衛生センター連絡会議事務局長
石綿対策全国連絡会議事務局長
アジア・アスベスト禁止ネットワーク(A‐BAN)
コーディネーター