6時間半、一度も長いと感じなかった。これが先ず不思議だ。この映画の背負っているものが、今の日本の、多分世界の苛立ちを背負っているからだろう。患者さんたちと裁判闘争の支援者たちとこの映画は、苛立ちながらも長い間を共に支えながら生きて来た、そして遂に闘争の目的を達成した(最高裁に勝訴した)、と思った瞬間、いや振り出しに戻っている、と気付く。そこまでを撮り続けた。だから、かもしれない。今やアベスガ首相によって代表される、全てを法解釈によって何事もなかったかのように切り抜ける悪知恵たち。これが大手を振って世の中を支配する様を映画は最後に明らかにして終わる。
それにしても何という原監督の患者さんたちとのやり取りだろう! アスベストを取り上げた(『ニッポン国VS泉南石綿村』)のとき、首相官邸の前で現代の悪に押し戻される老齢の被害者たちを、自分の監督の立場を勘ぐり捨てるようにして一歩前へ出た、あのシーンを思い出す。あの原監督を、今回も僕たちは見ることが出来るのだ、数々のシーンで。
しかし、あの時と比べ(時間的前後の問題ではなく)、今回の映画ではさらに奥行きのある原演出を見ることができる。ここに登場する、我が恋愛の数々をアッケラカンと語る女性患者への演出のことである。彼女が楽しそうに、誇らしげに我が恋愛を語るシーンだ。子どもの頃から差別に晒されてきた患者とその妻の初夜についてのシーンは実に重厚であり面白く、しかも真情溢れるものである。劇映画は遠く及ばない。そこに、人生幾多の経験を経た監督自身の人間への温かい切り込みを僕は見た。それらが随所に散りばめられる構成である。そこにも僕はこの映画の6時間半、その成功を見た。