ドキュメンタリー映画の鬼才 原一男公式サイト

原一男facebook
原一男twitter

原一男の日々是好日 ―ちょっと早目の遺言のような繰り言―

トップページ > 原一男の日々是好日 > 撮られた側の胸の内④
「ノンフィクションW ゆきゆきて、原一男
~反骨のドキュメンタリスト 70歳の闘争~」
 田中Dよ。マジに遠慮せずに反論してくれていいよ。あなたの側にも言い分があるだろ? あって当然だと思ってるよ。過ぎてしまったことは仕方ないとして、振り返ってみて、どこに問題点があったかを整理しておくって大切なことだもの。

 あれこれ書いてきたが、これらは全部私の側の“理屈”。あなたの側=撮る側の言い分だって当然あるよね。例によって奥崎さんとの駆け引きを引用するけど…奥崎さんと一緒に映画を撮ることになって、奥崎さんは奥崎さんでこんな映画にしてもらいたい、というイメージは当然あったわけだ。それは犯罪が奥崎さんにとって表現行為である、という認識はわりと早くから持っていたのだが、奥崎さんは、その犯罪行為を撮って欲しかったわけだ。だけど私が撮りたかったものは、彼と違っていたわけ。そんな場合は、やはり撮る側は、自分の撮りたいことを優先するよね。仮に奥崎さんから製作資金の全部を提供してもらって最初から“こういう内容を撮って欲しい”という要求に応えることが大前提ならことは違うだろうけど。撮る側は、あくまでも、相手への批判も含めて自由に撮りたいし、作りたいもの。

 今回、あなたに“私が撮って欲しい”と願ったものを、私にしてみれば最大限、現場で差し出した、と思ってるよ。だけどそれをあなたは受け入れなかった。私の不満は、まさにそこにあるわけだが。ま、百歩譲って、私の方の願いなんて否定していいと思ってるわけだよ。私が奥崎さんの要求を拒否したように。だけど、これが欲しくて私は撮りたかったから、あなたの願いを受け入れなかったんだよ、と相手が納得するものを提示しないといけないんじゃないかなあ?

 で、あなたが欲しかったもの…って何だ? ホントに私の何が撮りたかったの? これまでもあなたに何度も聞いた。私の何を撮りたかったのか?って。だけど、納得できる答えを聞いた気がしていない。私が泣いた場面が撮れたからいいわけ? 私に言わせれば、私が何故涙を流したのか? その涙の奥が描けてればいいんだが、描けているようには思えないんだけど。以前、NHKの番組に出演したときに、やはり私は泣いたんだが、ディレクターが「あの原一男を俺は泣かせた!」って威張ってたようだが、あなたもその類いかい? 泣く場面を撮れれば作品的に“イケる”ってわけかい? ま、それでもわたしとしては現場で、あなたに、その涙の奥の葛藤を見せたつもりだよ。精一杯演じたハズだよ。現場で私が演じていた、と分かっていただろ? 分かっていなかった? 私の演技が“くさくて見てられなかった”ってか! 知るか!

 WOWOWのプロデューサーの人が言ってたよ。視聴者の反応は、「良かった」という反応のほうが、「イマイチ」「物足りない」と否定的な受け止め方より多かったんだってね。私がTwitterで感じた割合と真反対なんだ。一つの作品をどう理解しようと観る側の自由だ。基本的には、そう思ってる。「オモシロかったよ」という声が多かった、ということは素直に、あなたのために「よかったじゃん」と言ってあげたい気持ちはあるんだが…でもね、厳しいことを言うが、「テレビってこんなもんですよ」という考えで作って、それが図星だった、と感じられてならないんだが。あなたのフィールドであるテレビの、視聴者なるものの指向、嗜好を知ってるからこそ、それに合わせて作った結果、あなたの作戦勝ち…。

 でもね、それでいいんだろうか? あの作品にあなたの作り手としてのメッセージが込められていただろうか? 表現上での工夫があっただろうか? 少しでもいいと思うが、何かしら“既成のものを壊し”“これまでになかった表現上の試み”“テーマの挑戦性”といったものがあっただろうか? 作り手は絶えず、自分自身の作品をこそ超えていくべきであるという課題を担うものだと私は考えているが、あなたは超えようとしたのかな?

 残念ながら、そんな気配は感じられない。「ホントはボクだって、挑戦したかった。だけど原さんがボクを受け入れてくれなかったじゃないか?」って反論するかい? 内心、そう言いたいんだろうなあ、って感じているが…。マジで、私に喧嘩を売っていいよ。言われっぱなしじゃ癪だろう?

(2015年10月6日)
PageTop