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原一男の日々是好日 ―ちょっと早目の遺言のような繰り言―

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「ノンフィクションW ゆきゆきて、原一男
~反骨のドキュメンタリスト 70歳の闘争~」
 番組が放送されて、多くの人のツイートがアップされた。率直に、“良かった”と肯定的に見てくれた人。“物足りない”と受け止めた人。可能な限りリツイートしている。謝意と私自身はどう思ったかを伝えたいと考えたからである。

  その中に、今でも引っかかっているツイートが一件あった。読んで激しく揺れた。心中穏やかではなかった。「ずいぶん乱暴な見方だよな。こういう決めつけ方をして欲しくないなあ」と感じた。どう揺れたのかを率直に書こう。

  ちょっと長いが、引用しておく。

  “何といっても原一男監督といえば『ゆきゆきて、神軍』にとどめを刺すといっても過言ではないくらい、あのどぎつい傑作が代名詞ともなっています。  

その原監督が、10年くらい前だったか、フィクションを1本撮っているんですが、本職のドキュメンタリーは94年の『全身小説家』以来、もう20年以上も発表してないんですね。してないというか、上の画像にあるように、いくつもの企画を並行して自分で撮影を行い、録音もしてらっしゃるようですが、完成もしてないし発表もできてない。

  とはいえ、今年だったか来年だったか新作が公開されるらしく、それはまことに慶賀だと万歳してしまったんですが、この番組で満足したのはその情報だけで、被写体に肉薄する原一男監督を追ったにしてはどうにも煮え切らない作品でした。

  だって、ディレクターさんが完全に及び腰なんですもの。

  時折、質問する声がマイクに拾われてましたが、ものすごく遠慮気味で、原監督が答えると「あ、そうですか」みたいなリアクションで、ぜんぜん突っ込んでくれません。

  プロデューサーでもある奥さんとはよく映画を見に行くらしく(『呪怨』とか見るんですね。へぇ~~)その様子を撮ってくれたのはうれしいんですが、奥さんは足に障害があり、プライベートを撮らせてほしいとお願いしても許可してくれなかったとナレーションが入るのみ。

  そこらへんのせめぎあいをもう少し活写してほしいんですけどね。原監督にしても、かなりきわどい、普通なら人が撮られるのを嫌がること/ものにカメラを向けてきた人なわけだし、なぜ拒むのかな、と。

  もしかしたら、ドキュメンタリーを撮りたいのになかなか撮れないのは自らの不寛容が原因なのでは? と思ってしまいました。

  だって、自分は撮るけど、人が自分を撮るのは許さない、なんてねぇ…。”

  私が引っかかったのは、「ドキュメンタリーを撮りたいのになかなか撮れないのは自らの不寛容が原因なのでは?と思ってしまいました。」のくだり。私が「不寛容だから」と断じている。すごく不愉快な気分になり、落ち込んだ。なぜならば、「不寛容」というキーワードは、私が長年、自分の多々ある欠点の中でも最大で、何とか「直したい」と願いながらなかなか直りきらず、今でも悩んでいることだからである。

  だが、ことはドキュメンタリーを作る上での諸々の課題点を含んでいるので、見過ごすわけにはいかない。

  まず今回の製作現場での問題点に触れていきたい。

  撮られる側と作り手の関係に関してだが、互いの信頼関係が築けている場合もあるだろうし、取りながら構築していったという場合もあるだろうし、最後まで関係性はギクシャクしていたという場合もあるだろう。率直に言おう。今回は最後まで、互いに、そう、Dのほうもそうだろうと思っているが、私の方もDに信頼が置けずに終わってしまったという実感が残っている。

  そうなってしまった要因は色々考えられるが…。

  ○私は、決していつでもいかなる場合でも“両手を広げて相手を受け入れるタイプではない。むしろ気難しいヒトとして世間では評価されている”と自分では思っている。このことについて言っておくと、子どもの頃からこの欠点に対して変えようとトライしてきた。しかし、なかなか直らない。大人になってから、努力することを棄てた。この欠点に囚われているとストレスが溜まるばかり。だから気にしないことにした。そう決めることでずいぶん楽になった。

  ○ドキュメンタリーを撮る動機、モティーフなる理屈はアレコレあるが、基本的には、自分の弱さ、ダメな部分、欠点etc.などを、カメラを向ける相手から鍛えてもらうため、と捉えている。素材の持つテーマとは別にしてだ。そんな私が過去に何度か、私にカメラを向けたい、という申し出を受けたことがあった。その時の私の態度は、私が相手に求めるレベルを、相手が私に求めてきたら応えるべきである、というもの。それが自分にとって“不利益”になることであっても。その覚悟はあるつもりだ。

  ○しかし、Dにしてみれば、“私の強面”にずいぶん戸惑ったことだろうと推し量る。だが本気で私に“何かを求めている”のであれば、そんな“壁”なんかは超えてくるだろう、と私の方は考えた。けれど結局、私に言わせれば、最後まで、その“壁”を超えてきたという気にさせてくれず終わってしまったと思っている。

  ○自分の現場を振り返ってみる。「神軍」の奥崎謙三にしても「全身小説家」の井上光晴にしても全面的な信頼関係が築かれていたかと問うと、必死に探りながら作業が進んでいった、という実感がある。具体的なイメージがあり何とか撮りたいと思ったときには懸命に相手にそのイメージを伝えて了解を取るべく口説いたハズだ。

  翻ってDの場合だって、具体的なプランがあるときには一所懸命に私を口説こうとしてきた。それが伝わったときには「いいよ」と応えたはずだ。奥崎さんは私が撮りたいと考えていた以上に彼の方からあれもこれも撮って欲しいと求めてきた人だったから別にして、井上さんには、頑として断られたことも多々ある。

  “普通なら人が撮られるのを嫌がること/ものにカメラを向けてきた人なわけだし”

  と、このツイッターのヒトは書いているが、現場を知らないヒトだろうと思う。相手がホントに嫌がっているものは、撮れないものである。隠し撮りは別だが。正確に言うと、“嫌がる”ことを全く撮っていないわけではない。たとえば奥崎さんが元兵士たちを訪ねていくが、その相手の人たちは、“嫌がっていた”と思う。この場合は、彼らが隠している、まさにそのことを明らかにすべき、だと考えていた。明らかにすることが、この作品の“使命”だと思ってたし“理”がある、と信じていたし、相手が仮に訴訟でもするなら受けて立とうと覚悟をして撮影に臨んだ。
「嫌がることを撮っていい場合」と「やっぱり撮ってはいけない場合」があるのだろうと思う。「撮っていい場合」とは、相手が撮られることを嫌がっていることが国家の犯罪に関することとか、公共の利益が優先すると考えられる場合。「撮ってはいけない場合」は、公共とは関係なく全く個人的なプライバシーの領域に関するもので、それは「撮れないもの」だ。しかし、そのプライバシーと言われるものの中にタブー意識があり、それを壊さなければ問題の本質が浮かんでこない、というようなケースは、あえてカメラを回すことはあり得る。

  ○Dが私のプライベートが撮りたければ……実際には“家の中”を撮らせて欲しいという要求だった。本気で撮りたいならば、喧嘩をしてでも要求を突きつけられれば、私の考えが変わったかもしれない。だって、それまでに、「これこそが欲しいんだ!」という強い意志を感じられてなくて私の方がイライラしてたくらいだもの。なぜ私が嫌がったかというとたいした理由なんかない。部屋の中が散らかっていて他人に見せるのが嫌だ、見られたくない、とそんな理由に過ぎない。「全身小説家」の井上光晴さんとのやりとりを思い出す。「何でも撮っていいですよ、と原さんに言いました。が、癌の痛みでホントに苦しいときに、そんな姿を撮っていいですよ、とは、とても言えないですよ」と。つまりは撮られくないことってあるんだ、ということである。撮られたくないと相手が嫌がっていること・ものは撮れないものである。

  ○いや、その答えは十分ではない。もっと言うと、「何故、原さんはウチの中を撮らせないんですか?」とDが私に食ってかかってきたことがあった。喧嘩口調で激しく。私も頭にきて怒鳴りながら「あなたを信頼してないからだよ!」と応えた。信頼していないから……これは本心だった。それまで彼に「私の何を撮りたいんだ?」と質問したときの答えとして「映画監督が映画を撮っていないとき何を考えているんだろうか?」くらいのことしか聞いていなかったからだ。「撮っていないときなんか何もしてないよ」とこたえるしかない。飯食って糞して、映画見てテレビ見て、早く次を撮りたいなあ、と夢想するだけの怠惰な日々。そんなものだ。その怠惰な日々を撮りたい、ってか?そんなアホな!

  ○もう一つ、私の中には「なんでウチの中を撮りたがるんだろう?」という疑問があった。ウチの中に何か、“私という人間の隠された真実”があるとでも思ってるんだろうか?映画監督と呼ばれるヒトは、常人とは違う何かをウチの中に隠してる、と思っているんだろうか? 百歩譲って、もしウチの中に入れたとして「あ、こんなに広い」、あるいは「狭いところに住んでるンか?」「ああ、キレイに整理されてるなあ」「全然掃除なんかしてないんだなあ」「あ、こんな趣味があるんか」「こんな本を読んでるンか?」といった感慨を持つことはあるだろう。しかし、それが一体、作品の内容に関わるっていうんだろうか?

  ○もう一点。これこそがドキュメンタリーを作る上での最重要なポイントだが、現場でどんな事情があるにせよ、言い訳があるにしろ、撮れてこそ“なんぼのもの”というのが我々の仕事ではないのか? 撮れなかったことを作品の中で、ナレーションで言うことがどういう意味を持つのか? 私は、ただ単に作り手の、弁明、嘆き節、泣き言でしかないと思うのだが。あるいは、断られた“腹いせ”なのか? あ、それなら効果があったよね。現に私に「何故撮らせなかったのか? 不寛容だからでは?」と書くヒトが現れたわけだからね。でもさ、大前提として「断ったあなたが悪い。こちらが要求したものをつべこべ言わずに全部撮らせるべきである」という態度が、私には気にいらない。そういう態度って傲慢ではないのか?それは特にテレビのヒトが多く持っている態度のように感じるが。テレビを撮るヒトってそんな偉いのか?何か「ヒトを裁く権限を神様から委託されてる」とでも言いたいのかい?

  ○もう一歩突っ込んで私の経験を。「映画監督浦山桐郎の肖像」を作った時のこと。浦山監督が亡くなった時、私は浦山監督と最も多く交流が深かった吉永小百合に取材を申し入れたが断られた。そこで、直筆の手紙を送った。こういう場合、無視されるケースが多いのだが、彼女は丁寧に直筆で、丁寧な口調ながら断りの手紙をもらった。私は、この手紙の文面をカメラで撮り、断れた経緯を作品の中に挿入しようかと考えた。しかし結局はやめた。“撮ってこそなんぼのもの”と考えたからだ。撮れなかったもの・ことに拘るのは、所詮、未練だと思ったからだ。

○さて、ツイッターを書いたヒトに問いたい気持ちを抑えられない。どこの誰かがハッキリ分かれば、直接会って話したいくらいのものだ。しかし、相手は匿名である。一つの作品をどう見ようと観る側の自由である。それは認める。けれど、「不寛容」と決めつけられた私は、どう反論すればいいのか?あまりにドキュメンタリー作品の見方が一面的に過ぎはしないか? 縷々書いてきたように、撮られる側と撮る側のせめぎ合いが発生するのが当たり前じゃないか、と言っていい世界なのだ。その内実が、作品をみれば全部分かるはず、とは言わない。しかし「感じ取ることはできるはずである」と私は思っている。感じ取れないとしたら、見る側の感性が鈍磨しているのではないか、と言いたい。  
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