ドキュメンタリー映画の鬼才 原一男公式サイト

原一男facebook
原一男twitter

ドキュメンタリストの鵜の眼鷹の眼

ドキュメンタリストの鵜の眼鷹の眼

自分の職業柄…ということもありますが、他の人が作ったドキュメンタリー作品を見る機会が多くあります。日本のもの、海外のもの、古典や若い人の作品etc。 そんな中に、私の問題意識とクロスする作品がありますが、それらを取り上げて、様々な角度から考察してみたいと考えています。 未だに"ドキュメンタリーとは何か?"と格闘中の私ですから、私自身が刺激を受けたい、と願って書きます。(原一男記)

トップページ > ドキュメンタリストの鵜の眼鷹の眼 > <原一男 ゆきゆきて、シネマ>第2回目のゲストは塚本晋也監督(『野火』) 生き方を探るために映画を作る
 「原一男 ゆきゆきて、シネマ 過激にトークを! 自由にバトルを!」第2回目。「ラスト・ナイツ」の紀里谷和明監督をゲストに第1回目を終え「未知の友と出会えた悦び」の余韻が残る中、さて第2回を誰にしようか? とアレコレ悩んだ。私も“人見知り”するタイプなので、誰でもいい、というわけにはいかない。この人だったら“多分”うまくいくだろう、という感触がないと決めきれない。3~4名の候補があがった。が、この人なら“私と合いそうだ”というところで判断がつきかねていた。そりゃそうだろ。一度も会ったことのない人に、合いそうかどうか? の決断をしろと迫っているわけだから難しいのである。

 いろいろ悩んで、塚本晋也監督にオファーをしようと決めた。最終的に決め手となったのは、紀里谷監督と同じく、自分の作品の上映を成功させるために“なりふり構わず”突っ走っている姿をメディアを通して、凄いなあ、よく頑張ってるなあ、と感じ取っていたこと。『野火』も人肉事件を扱っているし『ゆきゆきて、神軍』もしかりという“人肉つながり”(?)。『野火』は、当初超大作をと願っていたが出資者がつかず結局自主制作になった、ということ。私も自主制作派なので、その共感と、それらを全部プラスして塚本監督を選んだ。

 しかし、不安がないわけではなかった。塚本作品は『鉄男』のDVDを購入して、見て「凄いなあ」とその徹底したのめり込み具合に感心していた。『双生児』はリアルタイムで見ていたが、表現技術に“クセがあるなあ”と感じたくらいで波長が合わないかも、と感じていた。『KOTOKO』は宣伝文句を読んだだけで「あ、見たい!」と思い、即、Blu-rayを購入した。『野火』に関してはその時点でまだ見てなかったのだ。好意的な評価は伝わっていた。が『ゆきゆきて、神軍』と同じ“人肉事件”を扱っているということが、見ることをためらわせていた。見れば一言、言いたくなるだろう。何故か、触れたくないなあ、と思ったのだ。さらに、自主制作派の中には妙に自信過剰なヤツがいたりして、そういう輩とは口も聞きたくないと常々思っているので彼がそういうタイプだったら…? とその警戒心が解けたわけでもなかったから。私のスタッフが『野火』を見てないのに、塚本監督に決めていいんですか? と詰問調。まあ、見ていないという“ためらい”も含めて彼と話すしかないな、と覚悟していた。が全然見ないままトークに臨むわけはない。彼を選んだ以上『野火』は劇場で見なければ、と下高井戸シネマへ出向いた。さらに市川崑版も見る必要があるなと思い、市川版は2度、塚本版は計3度見た。他には『鉄男』を再び、『ヒルコ/妖怪ハンター』『東京フィスト』『バレット・バレエ』『双生児』『六月の蛇』『KOTOKO』のうち、2作品を新たに購入し、後は彼のオフィスから借りて見た。役者としてはNHK「カーネーション」は見ていた。そんなふうに集中して見ることで塚本作品がよく理解できた、というわけではない。逆に疑問点がたくさん出てくる。批判したいことも含めて、だ。それらの質問点を大ざっぱに整理して、いざ場に臨んだ。長すぎる前置きはこれくらいにして、さて、これからが本番だ。

    やり取りの詳細をここに再現はしないが、私の心の中に引っかかったこと(もちろん肯定的にだ)を中心に書き留めておきたい。私が放った質問の第1発目は、制作費のこと。今回の『野火」』は自主制作ということで、一体いくらかかったんだろうか? 当然知りたいではないか! 貧乏プロダクションで映画を作ってきた身にとっては、その金額を知ればお金を巡る苦労のレベルが分かるような気がするのだ。だが聞かれた方は、まあ“企業秘密”みたいなもの。だから聞かれたからとはいえ全てを答えてもらえるかどうか…。果たして、“うーん…ちょっと”と拒まれたのだが「『ゆきゆきて、神軍』の場合は、約5500万円くらいかかったんですよ」と言うと「ああ、こちらもそれぐらいかな…」と応じてくれた。たまたま父親が亡くなり、その遺産を…と。そうかあ、やっぱり! 自主制作と言えば耳あたりよく響くだろうか? 現実的には監督本人が個人的にかき集めることが多く、なかんづく家族を泣かせてしまうケースが多いのだが、彼もまた! 「近しい人たちから借りる時、必ず返すから、と実際に返してきたので信頼があって、また借りたいと頼んで、すんなり貸してもらって…」。ホントに、よく分かる、お金の苦労は。この話を聞いて「ああ、彼もオレたちと全く同じ苦労をしてきたんだ!」と一気に共感を抱き始めていた。

 塚本監督に最も聞きたかったことの中のひとつに、市川崑バージョンに関して拘りがあったかどうか! があった。客観的には塚本版はリメークだ。リメークの難しさは前作と比較されてしまうことにあると思うのだが、どう克服したかの質問の前に、まず葛藤があったのかどうか?

 市川監督の『野火』を始めて見たのは高校生の時。凄い傑作で、モノクロの画面がすごくて、高校生の時に作った作品をモノクロにしたくらい影響を受けて…。

 市川バージョンでは、ファーストカットが田村上等兵のほぼ、ド正面のアップから始まる。そして次ぎに指揮官のアップの切り返しが来て…という流れ。

 ですがあなたの場合は、やや斜めのポジションからですが、これは市川バージョンを意識して正面からを避けたんですか?

 実は、もうちょっと引いてたんです。というのは、田村上等兵の後ろに窓があって、窓外にジャングルの風景、バーッと光が溢れていて、ものすごい濃い緑の植物とかが見えていて、というつもりだったんですが、イマイチうまくいってなかったので編集の時に少しカット(トリミング)したんです。だからちょっと中途半端な感じになって…。

 市川バージョンでは、病院と軍指令部とを田村上等兵が往復しないんですが、あなたのは行ったり来たりしていますよね? これなんか市川バージョンがそうしているから、自分はそうしないぞ、っていう対抗意識があったわけですか?

 それは原作が、そうなってるからで。市川さんのは往復しないで済むようにセリフで言わせてますが、自分はセリフで言わせるのがどうも…。

 塚本監督は「カット割りを意識して映画を見ないんです」とハッキリ言った。これは重要なポイントだと思う。私はかなり意識するのだが。「ボクは観客として、いいなあ、と思いながらその作品を見る。現場では、その場で、どうカットを割っていこうかと考える」と。

 『野火』のポスターを始めて見たときにキャッチコピーに「何故、大地を地で汚すのか」とあって、へえ! 戦争映画で“地球環境を守る”的な視点、フレーズが強調されるとは珍しいなあと驚いたものだ。戦争を知らない世代が戦争を描く時代ってこういうふうになるのか! と新鮮な驚きだった。

 「まだ、映画化を思いついた最初の頃は、今までフィルムは16㎜で撮ってきたんですけど今度は35㎜でやろうと。あるいは70㎜で、緑の世界をキッチリと。原作を読んでても自然の描写が圧倒的で。イメージとしては真っ赤な花が咲き乱れてとか原色の鳥とかが飛び回っているとか、トロピカルな感じだったんです。実際にはチョット違ったんですけど。でもジャングルなんかは凄く濃い緑で…」

 なるほどなあ! 彼は自分自身が主人公の田村上等兵を演じる気持ちはなかったそうだ。どんな役者を考えていたんですか?

 最初は、小林薫とか。次は浅野忠信とか。それからたくさんの人に見てもらうためにジャニーズだったらいいかなあ、とか。

 実際のロケに当たっては、ミンダナオ島、沖縄、本土の埼玉、そしてハワイ、とロケ場所を移して撮影されている。資金が潤沢にあったら全編フィリピンロケで撮りたかったでしょ?

 多くの観客が印象に残るだろう大事なシーンは、最初にフィリピンでロケをしましたから。僕と最小のスタッフ、キャストでフィリピンへ行って、兵隊たちがたくさん出るシーンは経費の問題もあって沖縄でやって、爆破などの手がかかるシーンは国内の近場でやりました。最後に、もっと雄大な風景を求めてハワイへいきました。

 なるほどなあ、とつくづく感心した。お金があるから全篇、現地ロケを敢行する、という必要はないわけだ。イメージを壊さない限り、クソリアリズム路線で突っ張るのではなく、無駄なお金を使わない工夫をするのは映画制作の鉄則なのだ。各シーンをどこで撮れば、スタッフとキャストにかかる経費を抑えた上で、最大の効果をあげられるかという計算が緻密にできあがっているのに私は舌を巻いた。彼はもうヴェテランの域だ。私が作中、もっとも感動した風景ショットがある。ポスターにも使用されているのだが。画面手前の丘に立つ兵の後ろ姿、目の前には、茫洋と広がる俯瞰目に捉えた森、その向こうには山並みがガスに煙るように広がっている。何より、スケール感がうまく表現されていてとても気に入っていた。が、なんとこのショット、ミンダナオ島ではなく、ハワイなのだそうだ! リアルタイムで生放送を聞いてた人たちは、このエピソードをどう聞かれたのだろうか? 私だったらあくまでも、条件が悪かろうがクソリアリズム路線を主張して、何が何でも現地ロケをスタッフに強いただろうと思う。が彼は違った。あくまでもイメージ優先、なのである。彼が正しい! のである。精神が自由! なのだ。映画制作とはこうでなければ、ならない!

 さて、塚本作品に関して聞きたい最大のポイントは、彼の“手持ちカメラワーク”について、だ。塚本作品の多くが手持ちだが、私から見ると、その手持ちにも納得できるものとできないものがある。納得できる作品とは『六月の蛇』。これは激しい手持ちのブレの動きの中で、見せるべきものをキッチリ見せている。その長さは1秒の何分の1かの、ごく短い時間であるにも関わらず。うまい! と私は唸ったものだ。『野火』の場合は、どうか? 激しい戦闘シーン。敵が猛烈に激しい攻撃を仕掛けてくる。逆光の中、銃弾が雨嵐の如く降り注いでくる。そのシーンが、田村上等兵の主観として、手持ちのブレブレのカメラワークで撮られている。この場合、先の『六月の蛇』と違って、もう何が写っているかチラッとでも分からないくらい激しいブレた撮り方だ。命がけで逃げ惑っている時の主観だもの、もう何が何だから分からないくらいに逃げ惑っている必死さの表現の手持ちゆえ、という説明をすれば、これも理論上、説明はつく。だが他の作品の多くでは、なんと下手くそな手持ちなんだよ! と思ってしまったのだ。だからこそ、直接、本人に聞き質したかったのだ。

 ボク、フィックスの画って好きなんですよ。フィックスの時は、シンメトリーにカメラを据えてかっちり撮りたいと思うんです。手持ちの場合は、役者が芝居をしてて、微妙な動きの中で芝居が隠れてしまうときがある。その時に手持ちだと、スッと動くことでよく見える位置に入れる。これが三脚をつけていると、そうはいかない。芝居が一番よく見える、特等席で見たい、という欲求があるんですね。  塚本監督のこの答えを聞いて私は、瞬時に塚本作品のカメラワークの核心を理解できたと思った。私のお気に入りの『六月の蛇』の、手持ちの中にも一瞬キッチリ観客が認識できる撮り方も、作品によっては“なんて下手くそなカメラワークなんだ!”と呆れる手持ちワークにしても全部、当然のことながら監督としての計算の下に、なされていることなのである。つまり練達のテクニックである、ということに気づかされたわけである。まとめるなら、彼の手持ちカメラワークは、彼が映画制作の場で自由であるための絶対条件なのだ。

 1本目を作り、2本目を作り、さらに3本目を作り、と経験を重ねていくと、ほっといてもうまくなるものである。私は、うまくなることを必ずしも重要視していない。確かにうまくなって、つまり技術的には安定して表現を駆使しているのだが中身が深くないという作家、作品はザラにあるからだ。が、彼の作品は、段々うまくなっていってないなあ、という気がしたので、これも率直にぶつけてみた。あなたの作品は、普通なら段々とうまくなっていくものだけど、あなたのは、うまくなっていない。それは、うまくなることを拒否しているという、あなたが長年映画を作ってきての美学なんでしょうか? と。あまりのストレートな質問ゆえに、さすがの塚本監督も思わず苦笑という体だったが答えてくれた。

 毎回、作品ごとに、どう撮るか、どういう撮り方をするかを考えて撮りますねえ、と。

 サラッとさりげなく彼は答えたが、全くその通りだよなあと聞きながら思った。毎回、作品ごとの、その作品の持つテーマを、どう描くか? 手持ちカメラがカメラワークの軸だとして、その手持ちの微妙な動き方を、どう駆使するかを吟味し、検証し、選択するのだ。だから毎回、手持ちの動き方を変えて現場に臨むのだ。安易に、これまでに手慣れた手持ちの動き方を採用したわけではないのである。

 ここまで質問を重ねてきて、塚本映画の本質の理解に近づいてきたような気がし始めていた。四方田犬彦氏が「塚本晋也の映画はすべて、異形の者へと変身することの恐怖と恍惚を描いた映画である」と評論している。私に反論はない。その通りだなと思う。だが私は「塚本映画は、彼自身が根強く抱くコンプレックスの克服である」と考えるのだ。自らの内臓に自らの手でメスを持ち切開するが如くに、アレやコレやと克服する手段を夢想するわけだが、その夢想を主題にすることで様々な装いの作品が生まれる。そんな彼が、自分と似たような生き方をしている他者と出会う。例えば、Cocco。そして他者との共有できる質と他者であるがゆえの異質なものの内的葛藤が『KOTOKO』である。『バレット・バレエ』の主人公はなんと私でもあった。ああ、拳銃を持ちたいなあ、という武器への飢餓感は、私の場合は中学校の頃に一番強かった。今でいう“いじめっ子”が私に目を付けて何かと殴るのだ。喧嘩はからっきし弱い私は、ひたすら妄想の中で拳銃を入手してその虐めるやつに向かって幾度も発砲して殺したものだ。ボクシングの世界にのめり込む姿を描いた『東京フィスト』も、私もまた自分が喧嘩に強くなりたい、という飢餓感と通底する。塚本監督と会話を重ねながら、グングンと塚本作品が身近になっていく。これまで“食わず嫌い”だったところがあった塚本作品だが、それを取っ払ってみると、何のことはない! 私自身と共通している核がたくさんあるではないか! 実に嬉しくなってきた私である。

 自分の内臓を切開して血が滴るような痛みの中で映画を作ってきた塚本監督だが『野火』は、これまでの作品と趣がいささか違うように見えるのは、そんな自分をグローバルな場=この場合、戦争という状況…に放り込んで考えてみようとした映画だから、なのだと思う。

 私(たち)疾走プロ4作品は自主制作だが、自らの生き方を映画制作と重ねて追求してきたと思っている。私はドキュメンタリー、塚本監督はフィクション、という違いはあるが、自らの生き方を探るために映画を作るという態度は、私と全く同質であることを彼とのトークを通じて実感できた。2時間がアッという間に過ぎていったが、しみじみ幸福な時間だった。
(2015.12.25)
PageTop