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原一男の日々是好日 ―ちょっと早目の遺言のような繰り言―

 まさか、このような展開になるとは露とも思ってみなかった。まさに「寝耳に水」。

 週刊金曜日8月19日号は「さようならSEALDs」と題したSEALDs特集。特集のメインは、奥田愛基さんと私の対談。さらに、奥田愛基さんと私とが並んだ写真が表紙を飾っている。昭和20年(1945年)、敗戦が決まる直前に防空壕で生を受け戦後民主主義と共に生きてきた私にとって、“戦後民主主義が未曾有の危機にある今、あなたは、私は、どう闘う?”を週刊金曜日誌上で追求したかった。そうしたテーマで今後、週刊金曜日で対談の連載企画を進める話にもなっていて、担当編集者の渡部編集部員と私と私のスタッフで構想を練り始めていた。「さあ、連載、がんばるぞ」と意気込んでいた矢先の出来事だった。

 発端は「ツイッターで問題が起きてますよ」という私のスタッフからの連絡。さっそくツイッターをみてみた……。週刊金曜日8月19日号の表紙には「さようならSEALDs」、裏表紙には「ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター」と題する鹿砦社の本の広告が掲載されていて、それへの批判的な書き込みが、かなり多数アップされていた。書き込みは、「表紙と記事本文でSEALDsを持ち上げておいて、裏表紙で広告を掲載することで叩くなんて、ヒドく無節操である」「裏表紙を見たので買おうという気が失せた」などというものであった。

 はあ! と頭を抱え込んだ。出鼻を挫かれた思いだ。せっかくの企画が、雲散霧消してしまうのか!と悪夢に襲われた感じだ。

 それにしても、何故、こういう問題が起きたのか? 悪意ある誰かの意図があったのかどうか?
まずは事実経過をハッキリ確かめよう、と渡部編集部員に連絡。8月24日の社員会議でその問題を質すというのでそれを待つことにした。その結果。

①そもそも鹿砦社の広告自体は、以前から月1回掲載(基本は第3週目掲載)していた。「ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター」の広告が載ったのは8月19日号が2回目。なので、SEALDsの記事が掲載されることを狙って、という悪意があってのことではなく、たまたま重なっただけのこと。

②とはいえ、北村発行人と平井編集長は、誌面発売の約2週間前に表紙と裏表紙の色校が刷り上がってきたときに、SEALDsと鹿砦社とが表紙と裏表紙でバッティングしていることに気付き、なんらかの“まずい”状況になるかも、という懸念を抱いていた。が、平井編集長はその懸念を担当編集者の渡部編集部員に相談することはなかった。鹿砦社の広告をズラすことも不可能と判断した。

③広告の担当者は「雑誌とは『雑』を載せてるんだから」という理由から、鹿砦社の広告と「さようならSEALDs」特集がかぶることが「まずいとは思わない」「鹿砦社の表現の自由は守らなきゃ」と話していたそうな。平井編集長は「ダメな広告なら載せない。鹿砦社の広告は自分たちが審査をして通っている」と話したという。

④表紙と裏表紙の色校は事前に印刷され、編集部員は誰でもみることは可能。渡部編集部員は、取材や記事の編集などに追われていて、平井編集長から今回のことを知らされなかったことと、裏表紙の担当ではなかったこともあり、表紙の色校は見たが裏表紙はチェックしなかった。どのみちこの時点では気付いても、上層部の判断により、裏表紙を変えることはできない段階だった。

⑤一連のトラブルの動きを渡部編集部員に約2週間知らせることがなかった理由を平井編集長に問うと「伝えようと思ったけど、忘れただけ」「ヒューマンエラーですよ」という説明。結局、誌面発行後の段階で編集長はその事実を伝えてきた。

 はっきりしたことは、悪意ある意図はなかった、ということだ。それが分かりホッとしたことは確か。が、それでも残る疑問というべきか課題があるように思える。

 ①週刊金曜日といえども商業誌。定期的な広告収入源である鹿砦社との関係を壊すのは難しい、というポイント。が、そもそも週刊金曜日は内容の中立性を保つためには、広告に頼らないという方針を目指したハズ。その方針に賛同し、週刊金曜日を支持、購入した読者に対しては、裏切りにならないか?
(この疑問に、北村発行人は「売り上げ全体に占める割合からしたら広告に依存はしていない。ただ、広告収入がなくなるのは大変」、平井編集長は「広告収入に依存しないというのは、広告主に対してどんな記事が載ろうと遠慮はしないということ。むしろSEALDsの顔色うかがうのはSEALDsに依存している」と話したとか)

 ②次の疑問。表紙の目立つところに“編集委員”という人たちの名前が記載されている。錚々たる顔ぶれだなあ、といつも思っていたのだが、こういう問題のときに、真っ先に発言があって然るべきじゃないのかな?
が実態は、それらの著名な人たちが編集に関わっていないようなのだ。だから発言は無し……とやり過ごしていいことなのかどうか、だ。これって羊頭狗肉ではないか?

 一見、週刊金曜日内部の問題かのように見える。が、そうだろうか?
ひとりの編集部員が誇りと意地をかけて汲み上げた記事を、同志であるべき同じ編集部の長である人が、本来、支持し守るべきところを、あろうことか泥をぶっかけたに等しい。メッセージに込めた祈りを汚したのだ。70年代、このような人たちを“内部の敵”と呼んでいた。今や、この“内部の敵”という魑魅魍魎が跋扈していることに気付くべきなのだ。その魑魅魍魎たちがニッポン国の至るところに巣くっていることに。

 SEALDsは解散した。彼らは個に戻って、今後は個として闘っていく、と宣言。若い彼らは、記者会見に集まったメディアに向かって「あなたたちも、個として闘ってください」と強烈なメッセージを放った。私もその場にいて、彼らの檄を聞いていた。その通りだと思った。

 もしまた、同じような問題が発生したとしたら? それは、“悪意はなかった”ではなく、“悪意あって、起こるべくして起きた”ということを意味する。コトは広告問題。再び、起きる可能性は十分にある。が、幸い(?)にも編集長は、我らの連載企画にはゴーサインを出しているとのこと。ならば、我らの発する言葉に磨きをかけ、過激で先鋭で、濃密な記事内容を作ることが、為すべきこと、と私は今、闘志をたぎらせている。

 1月6日、新宿「ネイキッドロフト」で、「原一男大新年会」なるイベントを開催。能町みね子、吉田豪のお二人にゲストとして参加して頂いた。

 ディメンションから疾走プロ作品「さようならCP」「極私的エロス・恋歌1974」「全身小説家」が発売され、そのPRのために、が狙いだ。

  このイベントに関心を持ってもらえるのかどうか不安だったが年内に予約チケットが完売だったそうで、ホッと安堵の胸をなで下ろす。

さて重要なのはイベントの中身。当節、こうした“生の声を直接、聞く”というタイプのイベントに観客が集まらなくなってきている、という話を最近聞いた。ならばなおこと、イベントをオモシロく盛り上げないことには、ますます自分たちの首を絞めることになる、と戦々恐々という気分で当日を迎えた私。

 さて、強力なゲストのパワー頼み。吉田豪さん、さすがですねえ。奥崎謙三の、今はレアとなって入手不能な本をほとんど蒐集されている。したがって、奥崎謙三が、いかに悪文であるか、から話題はスタート。

 能町みね子さんは、性転換というドラマチックな経験をした人なので、その性転換したことによる、膣がどれだけ快感をもたらしてくれたのか?を根堀り葉堀り、具体的に聞いていく。

 で、私は私で何か「芸」をお見せしなければと悩む。“まな板の鯉”とばかり、いいようにしてください、と受け身じゃいけない。と悩んだところで“芸人”じゃないので、自分の恥を晒すことくらいしかできない。恥なら、自慢じゃないが、アレコレとてんこ盛りにある。「またの日の知華」のときに、桃井かおりからめっちゃお説教をくらい、ワンワン泣きまくったエピソード。奥崎さんがニューギニアロケのときに性に目覚めたわけだが、そのきっかけを作ったのは私であること。そのあと、インドネシアで、奥崎さんがセックスをしたいきさつ、そして自分の子どもを産んで欲しいとお願いをする、是非その場面を撮って欲しいと頼まれたエピソード。「全身小説家」で一番“嘘つき”なのは井上光晴ではなく瀬戸内寂聴であると埴谷雄高さんが指摘したというエピソード。

 当日、お話したことの全部をここで再現することは到底無理。ディティールを知りたい方はやはり当日会場に来て頂くしかなかったですねえ。来て頂いた方たちに対しては、ホントに有り難いと思う。DVDを2枚買ってくれた人もいて、作り手にとってはこれ以上の励みはないのである。

 能町みね子さんと吉田豪さん、おふたりのファンの方、ありがとうございました。そして疾走プロ作品のファンの方もありがとうございました。
(2016.01.13記)
 番組が放送されて、多くの人のツイートがアップされた。率直に、“良かった”と肯定的に見てくれた人。“物足りない”と受け止めた人。可能な限りリツイートしている。謝意と私自身はどう思ったかを伝えたいと考えたからである。

  その中に、今でも引っかかっているツイートが一件あった。読んで激しく揺れた。心中穏やかではなかった。「ずいぶん乱暴な見方だよな。こういう決めつけ方をして欲しくないなあ」と感じた。どう揺れたのかを率直に書こう。

  ちょっと長いが、引用しておく。

  “何といっても原一男監督といえば『ゆきゆきて、神軍』にとどめを刺すといっても過言ではないくらい、あのどぎつい傑作が代名詞ともなっています。  

その原監督が、10年くらい前だったか、フィクションを1本撮っているんですが、本職のドキュメンタリーは94年の『全身小説家』以来、もう20年以上も発表してないんですね。してないというか、上の画像にあるように、いくつもの企画を並行して自分で撮影を行い、録音もしてらっしゃるようですが、完成もしてないし発表もできてない。

  とはいえ、今年だったか来年だったか新作が公開されるらしく、それはまことに慶賀だと万歳してしまったんですが、この番組で満足したのはその情報だけで、被写体に肉薄する原一男監督を追ったにしてはどうにも煮え切らない作品でした。

  だって、ディレクターさんが完全に及び腰なんですもの。

  時折、質問する声がマイクに拾われてましたが、ものすごく遠慮気味で、原監督が答えると「あ、そうですか」みたいなリアクションで、ぜんぜん突っ込んでくれません。

  プロデューサーでもある奥さんとはよく映画を見に行くらしく(『呪怨』とか見るんですね。へぇ~~)その様子を撮ってくれたのはうれしいんですが、奥さんは足に障害があり、プライベートを撮らせてほしいとお願いしても許可してくれなかったとナレーションが入るのみ。

  そこらへんのせめぎあいをもう少し活写してほしいんですけどね。原監督にしても、かなりきわどい、普通なら人が撮られるのを嫌がること/ものにカメラを向けてきた人なわけだし、なぜ拒むのかな、と。

  もしかしたら、ドキュメンタリーを撮りたいのになかなか撮れないのは自らの不寛容が原因なのでは? と思ってしまいました。

  だって、自分は撮るけど、人が自分を撮るのは許さない、なんてねぇ…。”

  私が引っかかったのは、「ドキュメンタリーを撮りたいのになかなか撮れないのは自らの不寛容が原因なのでは?と思ってしまいました。」のくだり。私が「不寛容だから」と断じている。すごく不愉快な気分になり、落ち込んだ。なぜならば、「不寛容」というキーワードは、私が長年、自分の多々ある欠点の中でも最大で、何とか「直したい」と願いながらなかなか直りきらず、今でも悩んでいることだからである。

  だが、ことはドキュメンタリーを作る上での諸々の課題点を含んでいるので、見過ごすわけにはいかない。

  まず今回の製作現場での問題点に触れていきたい。

  撮られる側と作り手の関係に関してだが、互いの信頼関係が築けている場合もあるだろうし、取りながら構築していったという場合もあるだろうし、最後まで関係性はギクシャクしていたという場合もあるだろう。率直に言おう。今回は最後まで、互いに、そう、Dのほうもそうだろうと思っているが、私の方もDに信頼が置けずに終わってしまったという実感が残っている。

  そうなってしまった要因は色々考えられるが…。

  ○私は、決していつでもいかなる場合でも“両手を広げて相手を受け入れるタイプではない。むしろ気難しいヒトとして世間では評価されている”と自分では思っている。このことについて言っておくと、子どもの頃からこの欠点に対して変えようとトライしてきた。しかし、なかなか直らない。大人になってから、努力することを棄てた。この欠点に囚われているとストレスが溜まるばかり。だから気にしないことにした。そう決めることでずいぶん楽になった。

  ○ドキュメンタリーを撮る動機、モティーフなる理屈はアレコレあるが、基本的には、自分の弱さ、ダメな部分、欠点etc.などを、カメラを向ける相手から鍛えてもらうため、と捉えている。素材の持つテーマとは別にしてだ。そんな私が過去に何度か、私にカメラを向けたい、という申し出を受けたことがあった。その時の私の態度は、私が相手に求めるレベルを、相手が私に求めてきたら応えるべきである、というもの。それが自分にとって“不利益”になることであっても。その覚悟はあるつもりだ。

  ○しかし、Dにしてみれば、“私の強面”にずいぶん戸惑ったことだろうと推し量る。だが本気で私に“何かを求めている”のであれば、そんな“壁”なんかは超えてくるだろう、と私の方は考えた。けれど結局、私に言わせれば、最後まで、その“壁”を超えてきたという気にさせてくれず終わってしまったと思っている。

  ○自分の現場を振り返ってみる。「神軍」の奥崎謙三にしても「全身小説家」の井上光晴にしても全面的な信頼関係が築かれていたかと問うと、必死に探りながら作業が進んでいった、という実感がある。具体的なイメージがあり何とか撮りたいと思ったときには懸命に相手にそのイメージを伝えて了解を取るべく口説いたハズだ。

  翻ってDの場合だって、具体的なプランがあるときには一所懸命に私を口説こうとしてきた。それが伝わったときには「いいよ」と応えたはずだ。奥崎さんは私が撮りたいと考えていた以上に彼の方からあれもこれも撮って欲しいと求めてきた人だったから別にして、井上さんには、頑として断られたことも多々ある。

  “普通なら人が撮られるのを嫌がること/ものにカメラを向けてきた人なわけだし”

  と、このツイッターのヒトは書いているが、現場を知らないヒトだろうと思う。相手がホントに嫌がっているものは、撮れないものである。隠し撮りは別だが。正確に言うと、“嫌がる”ことを全く撮っていないわけではない。たとえば奥崎さんが元兵士たちを訪ねていくが、その相手の人たちは、“嫌がっていた”と思う。この場合は、彼らが隠している、まさにそのことを明らかにすべき、だと考えていた。明らかにすることが、この作品の“使命”だと思ってたし“理”がある、と信じていたし、相手が仮に訴訟でもするなら受けて立とうと覚悟をして撮影に臨んだ。
「嫌がることを撮っていい場合」と「やっぱり撮ってはいけない場合」があるのだろうと思う。「撮っていい場合」とは、相手が撮られることを嫌がっていることが国家の犯罪に関することとか、公共の利益が優先すると考えられる場合。「撮ってはいけない場合」は、公共とは関係なく全く個人的なプライバシーの領域に関するもので、それは「撮れないもの」だ。しかし、そのプライバシーと言われるものの中にタブー意識があり、それを壊さなければ問題の本質が浮かんでこない、というようなケースは、あえてカメラを回すことはあり得る。

  ○Dが私のプライベートが撮りたければ……実際には“家の中”を撮らせて欲しいという要求だった。本気で撮りたいならば、喧嘩をしてでも要求を突きつけられれば、私の考えが変わったかもしれない。だって、それまでに、「これこそが欲しいんだ!」という強い意志を感じられてなくて私の方がイライラしてたくらいだもの。なぜ私が嫌がったかというとたいした理由なんかない。部屋の中が散らかっていて他人に見せるのが嫌だ、見られたくない、とそんな理由に過ぎない。「全身小説家」の井上光晴さんとのやりとりを思い出す。「何でも撮っていいですよ、と原さんに言いました。が、癌の痛みでホントに苦しいときに、そんな姿を撮っていいですよ、とは、とても言えないですよ」と。つまりは撮られくないことってあるんだ、ということである。撮られたくないと相手が嫌がっていること・ものは撮れないものである。

  ○いや、その答えは十分ではない。もっと言うと、「何故、原さんはウチの中を撮らせないんですか?」とDが私に食ってかかってきたことがあった。喧嘩口調で激しく。私も頭にきて怒鳴りながら「あなたを信頼してないからだよ!」と応えた。信頼していないから……これは本心だった。それまで彼に「私の何を撮りたいんだ?」と質問したときの答えとして「映画監督が映画を撮っていないとき何を考えているんだろうか?」くらいのことしか聞いていなかったからだ。「撮っていないときなんか何もしてないよ」とこたえるしかない。飯食って糞して、映画見てテレビ見て、早く次を撮りたいなあ、と夢想するだけの怠惰な日々。そんなものだ。その怠惰な日々を撮りたい、ってか?そんなアホな!

  ○もう一つ、私の中には「なんでウチの中を撮りたがるんだろう?」という疑問があった。ウチの中に何か、“私という人間の隠された真実”があるとでも思ってるんだろうか?映画監督と呼ばれるヒトは、常人とは違う何かをウチの中に隠してる、と思っているんだろうか? 百歩譲って、もしウチの中に入れたとして「あ、こんなに広い」、あるいは「狭いところに住んでるンか?」「ああ、キレイに整理されてるなあ」「全然掃除なんかしてないんだなあ」「あ、こんな趣味があるんか」「こんな本を読んでるンか?」といった感慨を持つことはあるだろう。しかし、それが一体、作品の内容に関わるっていうんだろうか?

  ○もう一点。これこそがドキュメンタリーを作る上での最重要なポイントだが、現場でどんな事情があるにせよ、言い訳があるにしろ、撮れてこそ“なんぼのもの”というのが我々の仕事ではないのか? 撮れなかったことを作品の中で、ナレーションで言うことがどういう意味を持つのか? 私は、ただ単に作り手の、弁明、嘆き節、泣き言でしかないと思うのだが。あるいは、断られた“腹いせ”なのか? あ、それなら効果があったよね。現に私に「何故撮らせなかったのか? 不寛容だからでは?」と書くヒトが現れたわけだからね。でもさ、大前提として「断ったあなたが悪い。こちらが要求したものをつべこべ言わずに全部撮らせるべきである」という態度が、私には気にいらない。そういう態度って傲慢ではないのか?それは特にテレビのヒトが多く持っている態度のように感じるが。テレビを撮るヒトってそんな偉いのか?何か「ヒトを裁く権限を神様から委託されてる」とでも言いたいのかい?

  ○もう一歩突っ込んで私の経験を。「映画監督浦山桐郎の肖像」を作った時のこと。浦山監督が亡くなった時、私は浦山監督と最も多く交流が深かった吉永小百合に取材を申し入れたが断られた。そこで、直筆の手紙を送った。こういう場合、無視されるケースが多いのだが、彼女は丁寧に直筆で、丁寧な口調ながら断りの手紙をもらった。私は、この手紙の文面をカメラで撮り、断れた経緯を作品の中に挿入しようかと考えた。しかし結局はやめた。“撮ってこそなんぼのもの”と考えたからだ。撮れなかったもの・ことに拘るのは、所詮、未練だと思ったからだ。

○さて、ツイッターを書いたヒトに問いたい気持ちを抑えられない。どこの誰かがハッキリ分かれば、直接会って話したいくらいのものだ。しかし、相手は匿名である。一つの作品をどう見ようと観る側の自由である。それは認める。けれど、「不寛容」と決めつけられた私は、どう反論すればいいのか?あまりにドキュメンタリー作品の見方が一面的に過ぎはしないか? 縷々書いてきたように、撮られる側と撮る側のせめぎ合いが発生するのが当たり前じゃないか、と言っていい世界なのだ。その内実が、作品をみれば全部分かるはず、とは言わない。しかし「感じ取ることはできるはずである」と私は思っている。感じ取れないとしたら、見る側の感性が鈍磨しているのではないか、と言いたい。  
WOWOWの私が出演した番組について考えている。 私自身、納得いかないことが多すぎるくらいにある。 どこが、何に、私は納得できずにいるのかを、自分でもハッキリとつかんでおきたい。

  もっとも基本的なことだが(と私は考えている)、宇部・山口を訪ねた目的に関して。
※ロケにいくことの判断に関しては番組の制作者たちに委ねられている。だが、現地で“何をするのか?”の意志は私の判断である。現地で撮れた映像を使用する、しないの選択は制作者側にある。

  1.  防空壕で産まれた、ということを私は聞いているのだが、その防空壕がどこにあったのか?「ここにあったんだよ」とそのポイントを知りたい、と思ったのだ。
空襲警報が鳴り、臨月間近の母と、母の姉(※以後は、山田の叔母さん、と表記します)が防空壕に避難した。そこで産気づいて私が産まれた。山田の叔母さんは、女手一つで子どもを育てるのは、こんな時代では大変苦労するだろうから、今ならこの赤ん坊の鼻をつまんで死なせても誰も怪しまないから、と母を説得。で私の鼻に手をかけたとき、母が「やめて!」と叫んだ。「その子を育てるから!」と。
こんなエピソードを聞いている私としては、是非、その防空壕の場所を知りたいと強く思ったわけである。

2.  子ども時代(産まれてから炭鉱がつぶれて暮らしが立ち行かなくなる小学校3年生の頃まで)に育った炭鉱住宅が現在、どう変貌したのをしっかりと確認したかった。大人になって(成長して東京へと出ていく)から全くそこへ立ち戻ってないわけではない。そこが変貌していく様子を断片的に知ってはいる。だが2年前だったか、久しぶりに立ち寄ったときに、そのあまりの変貌ぶりにショックを受けた。地形すら変わっていたからだ。記憶に残っていた断片すらなくなっていた。その時、まさにそこで暮らしていた、という場所を見つけきれなかったのだ。今回は、なんとしてでも、ここに炭鉱住宅があったんだよ、と時間をかけて探したかったのだ。

  その2ヶ所に関しては、Dが是非行きたい、と言い、もちろん私も行きたかったから、じゃあ、ということで実現した次第。

  ロケは、まずは防空壕探しから始めることに。山田の叔母さんも亡くなっているので叔母さんの息子、私の従兄弟になる、賢治兄(賢ちゃんと表記)が叔母さんから、この一件を聞いて知っているというので、案内をしてもらうことに。結論から言うと、見つからなかったのだ。戦時中の防空壕が今も残っているわけがない。が、ここにあった、と分かれば、それでよかったのだ。がそれが分からなかった!(詳しい経緯は、別の稿で書くつもりなので、ここでは省略します。)私は、すっかり落胆。
それどころか、私の産まれた日付は“昭和20年6月8日”だが、当時その辺りに住んでいたという人に取材をしたのだが、宇部への大規模な空襲は、7月2日。6月8日はまだ、戦況としては緊迫してなかったハズ。臨月間近の女性を防空壕に連れて避難するような状況ではなかったと思うと言われ、私の誕生日自体の日付が危うくなってくるのか?と、新たな疑問が生じてしまった。

  で、作品の中では、この防空壕探しがスッポリ、不使用になっている。山田のウチへ行くと、賢ちゃんと、その妹の節ちゃん(私より2才年上でとても可愛がってくれた)が待っててくれて、10数年ぶりの再会になった。この再会のシーンはある。が、肝腎の防空壕探しには触れられていない。だから単に、従兄弟たちと久しぶりの再会を喜び合う、という内容になっている。

  実は、防空壕探しの前に山田の叔母さんのお墓参りに行った。私は叔母さんの墓参りは初めてなのだ。ホントに親子で食べることさえままならない極貧状態の時期に母は、この山田の叔母さんのウチに私を預けたことがあった。したがって従兄弟たちとは“兄弟のように”一緒に暮らしたことがある。だから従兄弟たちと私の間には、ひとしお肉親のような感情が存在する。山田の叔母さんも、私の鼻をつまんで死なそうとしたことの罪悪感があり、それを詫びるつもりもあったのだろうか、ホントに親身に世話をしてくれたのだ。私には、鼻をつまんで死なそうとした一件を聞いたときにも、叔母さんに対して非難する気持ちなんて露ほども起きなかった。山田の叔母さんの墓の前で、感謝の気持ちで、ただただ泣いていた。このシーンもない。

  つまり、作品の中で、肝腎の防空壕探しに触れてないので、何故、宇部を訪ねたのかが分からない。
作り手の側からすれば、見つからなかったから、活かしたくても使いようが無かったと判断した、ということになるのだろう…かな。

  二つ目の炭住探し。これもけっこう歩き回って探したのだが、今や、地形まで変わっていて、記憶を辿ろうとしても、混乱するばかり。見た目に新しい一戸建ての家が並んでいるのだが、たぶん、土地をならすために掘り起こしたりしたのだろう。なおかつ、すぐそばに高速道路が走っている。道路を作るわけだから、かつて凹凸のあった地形をならす工事は当然、大掛かりにやるだろう。それに道幅もかつてより広くなっている。これも拡張工事をすれば地形が変わってしまうことはあり得る。そんなこんなで、地形自体が変容してしまっていて、まるで“よその土地”に来てしまったかのような感じなのである。

  そんな中で、ウロウロ、真夏の炎天下、何度も行き来しながら、記憶を絞り込み、「ここだろうかな? いや、この辺りとしか考えようが無いな」というポイントを特定した場所は、今や、背丈もあるほどに伸びた雑草が一面に広がっている。故郷が荒廃して…とはよくある言い方だが、その荒廃した痕跡すら無いのだ。幼児の頃の記憶を拒絶されたかのような虚無感、寂寥感。雑草の茂みを見ながら、心の中がポッカリと穴があいてしまったような。無性に哀しくて涙が湧いてきて仕方なかった。
この一連の動きも、作品の中には使われてない。 作り手の側からすれば、ここでもまた、ここに在ったという痕跡でもあれば、シーンとして活かしたかもしれないが、何もなかったから、外しました、ってことなのかな?

  整理しよう。二つの目標。「防空壕探し」と「幼少期に暮らしていた炭住の跡」探し。二つとも“無かった”。そう、具体的な“もの”や“当時を知る人の証言”やらは、無かった。具体的なものが無いから、映像としては描きようがない。だからシーンとして作りようがない。
この想像が的を得ているかどうか…。当たっているとして…撮られる側の私としては、無いことが、私の精神にどういう影響を及ぼすのか?たしかに具体的なブツは無いが、無いことが、私の精神に与える影響は大いに在るのである。

  正直に言うが、防空壕が見つからなかったことの悲しみについて、Dが何故聞いてくれないのか? 聞いて欲しかったのだ。がDは聞いてくれなかった。炭住跡もそうだ。雑草を見つめながら故郷を無くしてしまったツラさを聞いて欲しかった。話したかった。が、Dは聞かなかった。ブツはなかったが、私の心の中の“叫び”は、まぎれもなく、在ったのに。

  翌日、山口へ移動して母親の墓参り。私は意を決して、防空壕探しの顛末、見つからなかったことを、声を出して墓石に水をかけながら語りかけた。「母ちゃん、防空壕を探したけど見つからなかったよ。母ちゃんが生きているときに聞いておけば、よかったねえ」。沈黙では分かりにくいだろうと考えての、私の精一杯の演技だった。Dに対してのサービスだった。くどくどと声に出して話した。このシーン、短く使われている。が、防空壕が見つからなかったという、私にとっての大切な箇所は、使われていない。

  ロケが終わって帰路についたのだが、私には、これでストーリーとしてどう構成するんだろうか? と不安がいっぱいだった。Dは「撮れました!」と喜んでいる。が、目標としていたものは見つからなかったわけだし、これじゃあ編集に困るだろう、と思い、その不足分はインタビューという形で答えるから、と提案したのだが、「いえ、もう十分です」と。
防空壕が見つからなかった、炭住の痕跡がなにもなかった、という問題は、ドキュメンタリーを作る意味について大きな問題を孕んでいる、と私は思う。具体的なブツ、それについて証言してくれる人、などがあれば確かに分かりやすい。が、無かったから、そのシーンを構成しなかった、という判断でいいのかどうか? なぜならば、そのことがカメラを向けた人物にとって大きな位置を占めているときに、やはり、何らかの表現上の工夫があってしかるべきではないのか?
「見えない“こと”“もの”を、どう可視化するか」が映像作家の最も重要な課題ではないのか? 「見えないものを見えるように、どう描くか」が、映像作りの最大の面白さではないのか?
私のドキュメンタリー論になるが、ドキュメンタリーとは、人間の感情を描くもの。感情の起伏がドラマを生む。その流れがストーリーだ。それらを通して時代の矛盾やら、仮題が浮かび上がってくる。その感情を私自身が、はき出した、と露ほどにも思えずに終了した。その結果が、この作品だ。だから、とても“悔しい”という想いが今でも胸の中を渦巻いている。

  撮れた映像を、どう構成をたて、編集しようが、それは制作者側に権利がある。作り手と、撮られる側の思惑の違い、という問題は、よく起こりうること。
それは私も、百も承知。だが、最初にDが「原一男を知りたい。原一男を描きたいんです」と言っていた、彼によって“原一男像”として捉えられた私は、作品を見て、「何、これ!?」という感想しか抱くことができなかった。私の思惑と違っていても、「なるほど。彼には、こんな風に見えていたのか」と納得できれば、いいわけだ。否定的に描こうが肯定的に描こうが、それはそれでいいわけだが、単に、「何、これ?じゃ、それって、やはり“失敗作”じゃないのかなあ!
(2015.9.16)    
長く“休眠状態”だった、私(たち=疾走プロ+「CINEMA塾」)のHPを再オープンします。 これまで「DOCU×DOCU ドキュメンタリーという生き方」という“見出し”で、HPを開設していましたが、あれこれ、ややこしい状況やら、多忙やらの理由で、新規に更新をストップしていました。これじゃいけない、と長く焦っていましたが、このたび心機一転、再開する運びになりました。 私も今年70歳=「古希」になりました。「あと、何年生きられるかな?」の残りの時間との競争状態に突入したなと考えています。撮っておきたい新作の企画も、五指以上あります。つまりスピードアップしなければ、と焦り気味です。ですが、とにかく“くたばる直前までは全力疾走”で頑張るつもりです。したがってHPに書いておきたい事柄も、これまで以上にあるはずだと自分自身に言い聞かせています。 どうか、気が向いたときで結構ですので、HPをのぞきにきてくれれば、幸せです。 (2015年9月10日)
今日、WOWOWで放送があった、私が出演した番組。 私は、自分の顔や姿を映像で見るのがいやで、いつもなら放送日の当日は見ないことにしているだが、今回は、どんなふうに描かれているのか?不安なものだから、リアルタイムで見た。 で、見た感想だが…どうも、フラットというか、内容に引っかかりが感じられない。1本の作品は、シーンが連続して成立する。その一つ一つのシーンでの深み、というか、もう一押しがない。あれ、もう次のシーンにいっちゃうの?という感じで物足りない。それぞれのシーンごとに狙いが感じられない。これじゃあ、イカンのじゃないかなあ。突っ込み不足。こんなところで、こんなことをやってます、はい、次!ってな具合で、情報的に紹介してまっせ、で終わりなのだ。こんな調子が全編なのだ。これじゃドラマチックになんかならないよな。感情の起伏というふうにはなっていかないもの。 だから、結局、全体として何を求めて彼は私を追っていたんだろう?とよく分からんのだ。ナレーションでそれらしく喋ってはいるが、それじゃあ、感銘は生まれない。 いやあ、撮られながら、こちらも作り手なので、ああ、こういうことを狙ってるんだな、とアレコレと想像する。ならば、私の方はこう答えてあげればいいだろう、と言葉を探り、用意しておく。が、そのことについて、彼が追っかけて聞いて来ない。あれえ!という不満が宙ぶらりんなまま、取り残され、蓄積していく。だから私の方は、やり切った、彼の求めるものに応え切った、という実感は全くない。 何故だろうか?としばし考えて思い当たった。彼の会社はバラエティ番組やワイドショーを制作しているのだそうだ。彼はそこで働いてきたわけだ。自動車の運転と同じように、最初が肝腎、運転の仕方を、自己流で覚えてしまうとその癖が一生直らない。ワイドショー的な現場で仕事の仕方を覚えてしまうと、以後、何を作っても、その作り方でこなしてしまう。したがって今回もおなじように、ワイドショー感覚が作品にでてしまった。そんなふうに解釈してみたのだが、どうなのだろうか?だって、情報を並べて、それぞれの内容を掘り下げることは必要なし、という態度は、まさにワイドショーの方法ではないか? 映画屋が作ると、それぞれのシーンで、もっと深く掘り下げなければ、という意識が働く。このシーンではこういう意味があります、とキッチリだめ押していく。それの連続が、作品全体の抑揚というかリズムを形成していく。 うーん!田中Dと今、私が感じたことを巡って話し合う機会ってあるのだろうか? もう一つ。これは彼が撮影を始めて以来、気になり続けていたことなのだが…彼は、私が歩いているとき、つまり、どこかへの移動の途中に、カメラは私の横位置から、質問してくる。これが私は苦痛で仕方なかった。歩いているときは、まさに歩くことに意識がいくのは当然。その歩いているときに質問をされると、もちろん、答えはするよ。でも、深く考えて、それを返す、というふうにはならない。上っ面の感じたレベルでしか言葉を発してないわけだ。だから言葉に深みがない。一つ一つの質問は、そんなに軽くない。だから、じっくり考えて答えたいのだが、そうはさせてくれない。これは彼だけではない。私のこれまでの体験だと、全てのテレビの人は、何かしら行為をしている最中に聞いてくる。何故なんだろうか?これこそがリアリティを捉える唯一無二の方法だと信じているんだろうか? (2015年9月12日)

「また泣いたんだって! ヤダヤダ! 見たくない! 恥ずかしい!」と、相方のプロデューサー、小林佐智子がほざいてます。コンチキショー!
泣いてる姿を曝す私が一番恥ずかしいと思ってるのに!
ヒトの気も知らないで。
いやぁ、現場で何度も涙を流したなあ。
でも仕方ないよなあ、今回の取材は、私が貧乏だった頃の、過去の悲しい思い出を辿っていったわけだから。
私の故郷の山口県宇部市の炭鉱住宅跡や、山口市を訪ねました。
率直に言いますが、私は「母ちゃんっ子」です。父親である人を全然知りません。
母親は苦労して苦労して私たち子どもを育て上げてくれました。
そんな母親の事を語ると思わず涙がこぼれたって仕方ないやないか!
親子ほど年令の離れたディレクターが私を見て何を感じとったんだろうか?と、私にしても不安なもんですよ!
私は今回は撮られる側、いわばまな板の鯉。私がいくらヤキモキしたってなす術がないでしょ。
まあ、不様に写ってないことを祈るばかりです!

(2015年9月11日)

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