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原一男の日々是好日 ―ちょっと早目の遺言のような繰り言―

トップページ > 原一男の日々是好日 > 週刊金曜日「鹿砦社広告問題」に触れて
 まさか、このような展開になるとは露とも思ってみなかった。まさに「寝耳に水」。

 週刊金曜日8月19日号は「さようならSEALDs」と題したSEALDs特集。特集のメインは、奥田愛基さんと私の対談。さらに、奥田愛基さんと私とが並んだ写真が表紙を飾っている。昭和20年(1945年)、敗戦が決まる直前に防空壕で生を受け戦後民主主義と共に生きてきた私にとって、“戦後民主主義が未曾有の危機にある今、あなたは、私は、どう闘う?”を週刊金曜日誌上で追求したかった。そうしたテーマで今後、週刊金曜日で対談の連載企画を進める話にもなっていて、担当編集者の渡部編集部員と私と私のスタッフで構想を練り始めていた。「さあ、連載、がんばるぞ」と意気込んでいた矢先の出来事だった。

 発端は「ツイッターで問題が起きてますよ」という私のスタッフからの連絡。さっそくツイッターをみてみた……。週刊金曜日8月19日号の表紙には「さようならSEALDs」、裏表紙には「ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター」と題する鹿砦社の本の広告が掲載されていて、それへの批判的な書き込みが、かなり多数アップされていた。書き込みは、「表紙と記事本文でSEALDsを持ち上げておいて、裏表紙で広告を掲載することで叩くなんて、ヒドく無節操である」「裏表紙を見たので買おうという気が失せた」などというものであった。

 はあ! と頭を抱え込んだ。出鼻を挫かれた思いだ。せっかくの企画が、雲散霧消してしまうのか!と悪夢に襲われた感じだ。

 それにしても、何故、こういう問題が起きたのか? 悪意ある誰かの意図があったのかどうか?
まずは事実経過をハッキリ確かめよう、と渡部編集部員に連絡。8月24日の社員会議でその問題を質すというのでそれを待つことにした。その結果。

①そもそも鹿砦社の広告自体は、以前から月1回掲載(基本は第3週目掲載)していた。「ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター」の広告が載ったのは8月19日号が2回目。なので、SEALDsの記事が掲載されることを狙って、という悪意があってのことではなく、たまたま重なっただけのこと。

②とはいえ、北村発行人と平井編集長は、誌面発売の約2週間前に表紙と裏表紙の色校が刷り上がってきたときに、SEALDsと鹿砦社とが表紙と裏表紙でバッティングしていることに気付き、なんらかの“まずい”状況になるかも、という懸念を抱いていた。が、平井編集長はその懸念を担当編集者の渡部編集部員に相談することはなかった。鹿砦社の広告をズラすことも不可能と判断した。

③広告の担当者は「雑誌とは『雑』を載せてるんだから」という理由から、鹿砦社の広告と「さようならSEALDs」特集がかぶることが「まずいとは思わない」「鹿砦社の表現の自由は守らなきゃ」と話していたそうな。平井編集長は「ダメな広告なら載せない。鹿砦社の広告は自分たちが審査をして通っている」と話したという。

④表紙と裏表紙の色校は事前に印刷され、編集部員は誰でもみることは可能。渡部編集部員は、取材や記事の編集などに追われていて、平井編集長から今回のことを知らされなかったことと、裏表紙の担当ではなかったこともあり、表紙の色校は見たが裏表紙はチェックしなかった。どのみちこの時点では気付いても、上層部の判断により、裏表紙を変えることはできない段階だった。

⑤一連のトラブルの動きを渡部編集部員に約2週間知らせることがなかった理由を平井編集長に問うと「伝えようと思ったけど、忘れただけ」「ヒューマンエラーですよ」という説明。結局、誌面発行後の段階で編集長はその事実を伝えてきた。

 はっきりしたことは、悪意ある意図はなかった、ということだ。それが分かりホッとしたことは確か。が、それでも残る疑問というべきか課題があるように思える。

 ①週刊金曜日といえども商業誌。定期的な広告収入源である鹿砦社との関係を壊すのは難しい、というポイント。が、そもそも週刊金曜日は内容の中立性を保つためには、広告に頼らないという方針を目指したハズ。その方針に賛同し、週刊金曜日を支持、購入した読者に対しては、裏切りにならないか?
(この疑問に、北村発行人は「売り上げ全体に占める割合からしたら広告に依存はしていない。ただ、広告収入がなくなるのは大変」、平井編集長は「広告収入に依存しないというのは、広告主に対してどんな記事が載ろうと遠慮はしないということ。むしろSEALDsの顔色うかがうのはSEALDsに依存している」と話したとか)

 ②次の疑問。表紙の目立つところに“編集委員”という人たちの名前が記載されている。錚々たる顔ぶれだなあ、といつも思っていたのだが、こういう問題のときに、真っ先に発言があって然るべきじゃないのかな?
が実態は、それらの著名な人たちが編集に関わっていないようなのだ。だから発言は無し……とやり過ごしていいことなのかどうか、だ。これって羊頭狗肉ではないか?

 一見、週刊金曜日内部の問題かのように見える。が、そうだろうか?
ひとりの編集部員が誇りと意地をかけて汲み上げた記事を、同志であるべき同じ編集部の長である人が、本来、支持し守るべきところを、あろうことか泥をぶっかけたに等しい。メッセージに込めた祈りを汚したのだ。70年代、このような人たちを“内部の敵”と呼んでいた。今や、この“内部の敵”という魑魅魍魎が跋扈していることに気付くべきなのだ。その魑魅魍魎たちがニッポン国の至るところに巣くっていることに。

 SEALDsは解散した。彼らは個に戻って、今後は個として闘っていく、と宣言。若い彼らは、記者会見に集まったメディアに向かって「あなたたちも、個として闘ってください」と強烈なメッセージを放った。私もその場にいて、彼らの檄を聞いていた。その通りだと思った。

 もしまた、同じような問題が発生したとしたら? それは、“悪意はなかった”ではなく、“悪意あって、起こるべくして起きた”ということを意味する。コトは広告問題。再び、起きる可能性は十分にある。が、幸い(?)にも編集長は、我らの連載企画にはゴーサインを出しているとのこと。ならば、我らの発する言葉に磨きをかけ、過激で先鋭で、濃密な記事内容を作ることが、為すべきこと、と私は今、闘志をたぎらせている。

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