12月29日、5回目のオールラッシュ。尺は、最大4時間ほどあった長さが3時間38分にまでになった。今回は、最終版を始めて見る、島野君、千葉さん、古谷さんの3人から意見を聞くこと。
「作品の長さは、観客の生理的な観点からいうと2時間が理想」という考え方を、私も知っている。だから原則的には、2時間に近づけるという意識を持って編集に臨むことにしている。渋谷「シネマヴェーラ」で2月に上映したときの長さが2時間14分だった。その時に観客の反応は、もう少し長くても大丈夫だよ、という意見が多くあった。原告団の人たちも、同じく、もうちょっと長くても、という意見。その意見に力を得て(?)、よし、ならば、と、それまでに外したものを全部チェックし直そうと考えた。実は、何が何でも2時間に近づける、という意識でつないでいるときは、これ以上は入らないから、と現場での記憶を拠り所に判断して外していたシーンが多くあったのだが、入れたいシーンはみんな入れてみようと基本的な態度を変えてみると、あれも入れたい、これも入れたい、と一気に4時間にまで膨らんできた。8年間、撮影を続けてきたんだもの、落としたくないよなあ、というシーンがたくさんあって当然だ、と思いつつ、さて、しかし、いったん入れ込んだシーンを外すのはツラいものである。ここからが、真に編集のヤマ場が始まったなあ、という感じがする。編集の秦さん、構成の小林と議論を交わしながら、ディティールを詰めていく。
実は、私は、今回のこの作品、撮影しながら“おもしろい映画になるんかしら?”と不安で仕方なかったのだが、最終版の編集の過程で、“けっこうオモシロいじゃないか!”と思えてきた。「神軍」や「極私的エロス」の質とは違う、庶民=生活者の生き方がもつ様が描けているなあ、と。
が、個々のシーンにオモシロいところがあったとしても、果たして、3時間半という長さに観客がついてこれるだろうか?と危惧をスタッフの島野君は言う。もっともだと思う。だが編集をしながら、私は、疾走プロ最長の作品になるだろうが、これで、いいんだ、と思えるようになってきたことも確かだ。だって裁判闘争を描いてきたわけで、その裁判闘争自体が8年間かかったわけで、その全体を描くために作品が長くなるのはやむを得ないではないか、と思う。もう一点、原告団の人たちの数が、一陣、二陣含めて50名を越える。それらの人たちの魅力を描こうとすると、頭数が多いんだもの、必然的に、長さが伸びてしまうのも、これまた、やむを得ないことだと思う。構成とプロデューサーの小林としばしば意見がぶつかった。少しでも短く、と主張する小林の気持ちも分かるが、腹を括った。内容、テーマからして、どうしても長くなければ描けないものもあるのだ、と。3時間半という長尺だからこそ、伝えられる世界だってあるはずだ。作品の長さとは、作り手自身が納得できる内容があると信じているからこそ、決まってくるものだ。3時間半と聞いただけで、見ることを放棄するような観客ならば、「見てくれなくてけっこうだ」と居直ることにしよう。そんな態度を「作り手の傲慢だ」と言われるならば、甘んじて受けよう。今回の作品、“市民運動”を扱ったもの、映画館で公開して大ヒットを期待する、というようなタイプの作品ではない、と自分でも分かっているつもり。もちろん作り手としては、あらゆる映画はエンタティメントであるべき、と信じている私は、おもしろさは追求しているつもりだ。が題材からくる印象は、堅い内容、難しいテーマ、暗くて、理屈過剰で、退屈な映画…と興業としては不利な印象を持たれる不利さは否めない、と思っている。劇映画、ドキュメンタリーを問わず映画は、人間の感情を描くものである、という理論を信じているのだが、「まあ、観てみてください」と言うしかない。胸突き八丁、もう頂上は見えてきた、という感じだ。もう一息、最後まで頑張ろう、と自分に言い聞かせている。
(2017.1.2記)
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