遅ればせながら「山形」のレポートを書いた。私自身の記録のためにも、掲載しておきたい、と思い、恥を忍んで書いた。
「山形国際ドキュメンタリー映画祭」
告白的レポート
国際映画祭に私たちの作品が出品されたことは、これまでにも多々ある。がコンペティションに出品するのは、今回が初めてだ。そのコンペなるものが苦手である。なんで審査員たちに作品の優劣を選んでもらわないといけないのか?という疑問を抱いているからだ。今回の「ニッポン国VS泉南石綿村」は、宣伝・配給という仕事をプロに頼むことになった。今や、時代は変わった、宣伝の仕方も、と周辺の人たちから口々に言われて、そういうものかな、と思い決心したのだ。その宣伝の人たちや劇場の人たちが、しきりに山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペに出した方がいい、と勧める。実は、山形へは「全身小説家」を出したことがある。で見事に無視され、選に洩れた。そのときの屈辱感が忘れられない。もう二度とコンペなんかには出したくない、と思った。今回のコンペに応募して、その屈辱感の再現になるのが嫌だったから、という理由もあった。が、まあ、強い周辺の勧めに負けたのだ。結果はコンペにはパスした。ホッとした。が私の“不安地獄”は、ここからが始まりだった。私はこれまで、作品が完成していざ発表、公開するときに、決まって強い不安感に陥る。この作品、オモシロいと思ってもらえるだろうか?という不安感だ。どの作品も例外なく、だ。だから、試写の初めは、身内とごくごく少数の映画関係者だけの小さな人数でスタートする。次は、これまで私たちの作品を好意的に見てくれる批評家を数人というふうに。そして恐る恐る反応を窺う。そこで褒めてもらったとしよう。やはり褒められれば嬉しいし、ホッとする。が、その言葉は、元々私たちの作品に好意的な人たちなので割り引いて受け止めないといけない、というふうに戒める。でまた、少し人数を増やして試写をやる。そこで反応を見る。それを繰り返すわけだ。で私にとって今回は、厄介、かつ重要なことがあった。これまでの作品は、とんがった人を主人公に映画を作ってきた。とんがった、つまり過激な生き方をしている人を主人公に選び、過激なストーリーをもった作品。そんな映画作りを重ねてきて、描き方、つまり方法論も深めてきたつもりでいた。が時代は昭和も終わり平成になり、新しい作品のための主人公を探しても探しても、過激な主人公がいない。変だなあ、おかしいなあ、と焦った。10年探したがいない。何故いないのだろうと考えるようになった。そしてさらに10年。なんとなくぼんやり分かってきた。昭和という時代には、過激な生き方を受け入れる余裕があった。が平成という時代になると、その余裕がなくなった。それは権力者たちによる民衆への抑圧、締め付け度が強くなってきたからだ、と理解した。うーん、困ったなあ、と落ち込んでいたときに「原さん、水俣をやってみませんか?」という話がきた。続けて「原さん、アスベストをやってみませんか?」という話がきた。元々、ノリは軽い方である。「やってみましょうか」と返事した。まず、やりましょう、と答えてから下調べを開始する。順序が逆じゃないか、と言う人もいるだろう。が、やる、という前提でなければ下調べが切迫感を持たないのだ。が下調べの段階で頭を抱え込む感じになってきた。繰り返すが、これまで私はとんがってる人を描いてきた。が、水俣の人も、アスベストの人たちも、とんがってるどころか、ごくごく普通の人たちだなあ、という感慨しか持てなかったのだ。困った。ほとほと困ってしまった。20代の頃、ドキュメンタリーを作るという生き方を選択したときに思い決めたことがあった。自分は、怠惰でひ弱(肉体的にも精神的にも)で、コンプレックスが強くて、とダメダメオンパレードの自分がいて、だからこそ、主人公を、強く、優れて、心から尊敬できる人を選び、私の弱い部分を鍛えてもらいたい、と思ったのだ。だから普通の生き方をしている普通の“生活者”を絶対に主人公に選ばない、と決めたのだ。だが、水俣の人たちもアスベストの人たちも、どう見ても普通の人たちだった。普通の人たちを撮ってオモシロい映画なんかできっこないじゃないか、と思っていたからだ。だが、もう、やります、と答えていた。さて、どうしたものか? 二進も三進もいかない感じ、袋小路に迷い込んだ感じだった。だから、よく下調べをして、やれる、という感触を得てから相手にやります、と答えればいいじゃないか、と言う人もいるだろう。が、そこのところの考え方が違う。のっぴきならないところに追い込まれないと、本気で考え始めない、という困ったキャラなのである、私は。水俣もアスベストも縁あって私に声をかけてくれた人がいた。もちろん、それは私への厚意と期待である、と受け止めている。が私は、それを挑発と受け止めるべき、と言い聞かせている。「あなたに、できますか?」と言われているんだよ、と。そう言われて、できません、と答えるのは癪だし、悔しいじゃないか。だから、クソッと言いながら頑張るのである。つまり、そういう頑張り方を、これまでもしてきたし、これからも基本的には変わらないだろうと思ってる。20代の頃に思い決めた決意と覚悟は、その方法に変わる描き方を見つけ出さない限り、作り手としてはこれから作品を作れない、という窮地に追い込まれてしまってる私にとっては、目の前の、この申し出を、チャンスと思って取り組み、私にとっては新しい方法を見つける以外に生き延びることはできないのだから。
「水俣」のことはさておき「アスベスト」の方に話を絞ろう。理論的には自分自身を納得させた私であったが、実際に撮影に入っても、目の前には普通の人たち。これでオモシロい映画になるのかしら?という不安は、最後の最後まで続くことになった。8年半続いた裁判が終わり、したがって撮影も終わり、その時点で、オモシロく撮れたという自信とて全くなく、編集に入っても、これはオモシロい作品になるという確信なんか全く持てず、完成後もおそるおそる内覧試写をやって好評の雰囲気はあるものの、不安は解消されず、山形へ向かうという展開。長い長い前置きになってしまったが、私の不安の内実を分かって頂けるだろうか?
その山形。2回、上映が組まれている。その1回目。会場の市民公会堂がとにかく、でかい。ここで上映に先立ち、音量チェックをするわけだが、思わぬアクシデントが発生。観客席の後方が斜面に設計されている。したがって前の方へと下る階段がついている。係の人がスクリーンに映像を映している。音量は?と聞かれて中段まで移動して判断しようと階段を降りる。が、真っ暗だ。おそるおそる階段を降り始める。と、アッと言う間もなく体が宙に浮いた。ヤバイ! と思った次の瞬間、上顎をゴツン! とぶつけてしまった。下りの階段なので転ぶ角度も大きく、加速もついたのだろう、上の歯並びに痛みが走った。ああ、歯が折れてしまったかなあ! が頭をよぎる。私の転倒を見て急いで場内を明るくしてくれた。スタッフが駆け寄ってくる。「大丈夫ですか?」「大丈夫じゃないよ」と正直に答える。「あーあ、上映の前に転倒するなんて、何か良くないことが起きる前兆なのかな?」と愚痴る。放っておけば直るからと言う私にレントゲンを撮って確認した方がいい、とスタッフに強く言われて、病院へ。ため息つきながら待っていたら、「紹介状がないので初診料を¥5000頂きます」と言われてカーッと頭にきた。救急的なアクシデントで来たのに紹介状を求めるのか! 理不尽な! と思った私は「診察、けっこうです」と病院を後にした。そんな幸先悪い出来事があっての上映スタート。息を潜めて成り行きを見守る。無事、終了。大阪から駆けつけてくれた原告団、弁護団、市民の会の人たちを観客に紹介。続いてロビーでのQ&A。熱気が感じられる。この後からである。会場の中のあちらこちらを歩いていると、私の顔を見つけて、満面の笑みを浮かべて近づいてくる人が一気に増えた。そして「良かったです!」と言ってくれる。相当の数の人が、である。海外の人も含めて。いやあ、嬉しかったなあ! 何の利害関係のない人たちの言葉だから、100%、素直に受け止めていいんだ、と思う。ホッとした。内容的にはいけてるんだ、安心していいんだ、と自分に言い聞かせる。普通の人を描いて、オモシロいと思ってもらえたんだ。とりあえず私にとってはもの凄い解放感だった。長い長い間、普通の人を撮っておもしろい映画ができるわけがない、と悩んだ末に「オモシロかったです!」と言ってもらえた嬉しさ。翌日2回目の上映。やっとリラックスして見れた感じがする。けっこう笑えるシーンがたくさんあるんだなあ、と初めて思えた。
さて、こうなると欲が出る。「観客賞」を狙おうよ、とスタッフと会話のグレードがあがってきた。その後も私に「良かったです」と声をかけてくれる人が絶えなかったからだ。もしかしたら……と期待が膨らんだ。表彰式の日。いよいよ発表の時。いの一番が「観客賞」の発表だ「ニッポン国……」と聞こえた一瞬、やった!と喜びが溢れた。人生の中でも、こんなに嬉しい一瞬なんて、そうザラに訪れることがないだろう。
こうなると欲が出る、と先に書いたが、実は、もうひとつ欲が出ていたのだ。審査員が選ぶ本賞の方だ。予想を遙かに超える人たちの賛辞が、私(たち)の欲に火をつけた。もしかしたら本賞の方もいけるかも、と。せっかくのコンペティションなので、時間が許す限り作品を見ようと臨んだ映画祭。だが取材やら打ち合わせで見れない作品も出てくる。それでも10本は見れた。それらと我らの作品を比べて、私たちの作品の出来が劣っているとは思えなかった……と書いて思わず苦笑い。エラい自信やなあ!と。山形に来るまでの、あの不安感はどこへいったんや? という感じだ。でも、ここで、これだけ受けたのだから、ということが妙な自信を支えていた。だから、表彰式で最初に呼ばれてからは、私の心の中で、もう一つ、もう一つ、と最大級のドキドキ感が増幅していた。が、最後の最後のロバート・フラハティ賞になっても、私たちの作品がよばれることはなかった。この時の脱力感をどう表現したらいいのか? 足が地に着かない。観客席の音も聞こえない。多分、私の視線も虚ろだっただろう。後日、幾度も幾度もこの時のことを反芻するのだが、決して一等賞を期待していたわけではない。いや、正直に言うと、もしかしたら、という淡い期待はあった。がリアルに言うと、15作品のコンペ作品の内、5作品が賞に入るわけだから、その中には入るだろうと思っていた。が結果は、ついに呼ばれることはなかったのだ。
表彰式の後、私の顔を見つけてたくさんの人が「市民賞、おめでとうございます」と声をかけてくれる。ありがたい、と思い笑顔でお礼を返したいのだが、顔が引きつってうまく言葉が出ない。間違いなく市民賞は嬉しかった。10年悩みに悩みながら作ってきた私の背中を、これでいいんだよ、と押してくれた、と思っている。が本賞が何も取れなかったことが、気持ちをひどく沈ませた。審査員たちは一応映画のプロだと思っているが、そのプロからすると作品の内容が賞の対象にするほどの出来ではない、と言われたことを意味する、としか考えられないからだ。それは、作り手にとっては、とても悔しいことだ。もちろん賞を狙って作品を作るという気持ちは微塵もない。だから賞が取れなかったからといって落ち込むことないじゃないか、とは思っている。が、作品の方向性が認めれないということはツライものがある。この賞を取れなかったことは、どうやら長く尾を引きそうだなあ。
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