ドキュメンタリー映画の鬼才 原一男公式サイト

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原一男の日々是好日 ―ちょっと早目の遺言のような繰り言―

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「ノンフィクションW ゆきゆきて、原一男
~反骨のドキュメンタリスト 70歳の闘争~」
今日、WOWOWで放送があった、私が出演した番組。 私は、自分の顔や姿を映像で見るのがいやで、いつもなら放送日の当日は見ないことにしているだが、今回は、どんなふうに描かれているのか?不安なものだから、リアルタイムで見た。 で、見た感想だが…どうも、フラットというか、内容に引っかかりが感じられない。1本の作品は、シーンが連続して成立する。その一つ一つのシーンでの深み、というか、もう一押しがない。あれ、もう次のシーンにいっちゃうの?という感じで物足りない。それぞれのシーンごとに狙いが感じられない。これじゃあ、イカンのじゃないかなあ。突っ込み不足。こんなところで、こんなことをやってます、はい、次!ってな具合で、情報的に紹介してまっせ、で終わりなのだ。こんな調子が全編なのだ。これじゃドラマチックになんかならないよな。感情の起伏というふうにはなっていかないもの。 だから、結局、全体として何を求めて彼は私を追っていたんだろう?とよく分からんのだ。ナレーションでそれらしく喋ってはいるが、それじゃあ、感銘は生まれない。 いやあ、撮られながら、こちらも作り手なので、ああ、こういうことを狙ってるんだな、とアレコレと想像する。ならば、私の方はこう答えてあげればいいだろう、と言葉を探り、用意しておく。が、そのことについて、彼が追っかけて聞いて来ない。あれえ!という不満が宙ぶらりんなまま、取り残され、蓄積していく。だから私の方は、やり切った、彼の求めるものに応え切った、という実感は全くない。 何故だろうか?としばし考えて思い当たった。彼の会社はバラエティ番組やワイドショーを制作しているのだそうだ。彼はそこで働いてきたわけだ。自動車の運転と同じように、最初が肝腎、運転の仕方を、自己流で覚えてしまうとその癖が一生直らない。ワイドショー的な現場で仕事の仕方を覚えてしまうと、以後、何を作っても、その作り方でこなしてしまう。したがって今回もおなじように、ワイドショー感覚が作品にでてしまった。そんなふうに解釈してみたのだが、どうなのだろうか?だって、情報を並べて、それぞれの内容を掘り下げることは必要なし、という態度は、まさにワイドショーの方法ではないか? 映画屋が作ると、それぞれのシーンで、もっと深く掘り下げなければ、という意識が働く。このシーンではこういう意味があります、とキッチリだめ押していく。それの連続が、作品全体の抑揚というかリズムを形成していく。 うーん!田中Dと今、私が感じたことを巡って話し合う機会ってあるのだろうか? もう一つ。これは彼が撮影を始めて以来、気になり続けていたことなのだが…彼は、私が歩いているとき、つまり、どこかへの移動の途中に、カメラは私の横位置から、質問してくる。これが私は苦痛で仕方なかった。歩いているときは、まさに歩くことに意識がいくのは当然。その歩いているときに質問をされると、もちろん、答えはするよ。でも、深く考えて、それを返す、というふうにはならない。上っ面の感じたレベルでしか言葉を発してないわけだ。だから言葉に深みがない。一つ一つの質問は、そんなに軽くない。だから、じっくり考えて答えたいのだが、そうはさせてくれない。これは彼だけではない。私のこれまでの体験だと、全てのテレビの人は、何かしら行為をしている最中に聞いてくる。何故なんだろうか?これこそがリアリティを捉える唯一無二の方法だと信じているんだろうか? (2015年9月12日)
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