原一男監督原一男監督

プロフィール

原一男(はら・かずお)

1945年6月、山口県宇部市生まれ。東京綜合写真専門学校中退後、養護学校の介助職員を勤めながら障害児の世界にのめり込み、写真展「ばかにすンな」を開催。72年、小林佐智子と共に疾走プロダクションを設立。同年、障害者と健常者の"関係性の変革"をテーマにしたドキュメンタリー映画『さようならCP』で監督デビュー。74年、原を捨てて沖縄に移住した元妻・武田美由紀の自力出産を記録した『極私的エロス・恋歌1974』を発表。セルフ・ドキュメンタリーの先駆的作品として高い評価を得る。87年、元日本兵・奥崎謙三が上官の戦争責任を過激に追究する『ゆきゆきて、神軍』を発表。大ヒットし、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリなどを受賞。94年、小説家・井上光晴の虚実に迫る『全身小説家』を発表。キネマ旬報ベストテン日本映画第1位を獲得。05年、ひとりの人生を4人の女優が演じる初の劇映画『またの日の知華』を発表。後進の育成にも力を注ぎ、これまで日本映画学校(現・日本映画大学)、早稲田大学、大阪芸術大学などで教鞭を取ったほか、映画を学ぶ自らの私塾「CINEMA塾」を不定期に開催している。寡作ながら、公開された作品はいずれも高い評価を得ており、ブエノスアイレス、モントリオール、シェフィールド、アムステルダムなど、各地の国際映画祭でレトロスペクティブが開催されている。

メッセージ

なぜ、私は「ニッポン国VS泉南石綿村」を撮ったか?

私(たち)は、商品を作るというノリで、自分たちの映画作りを考えたことはない。その時代その時代から問われて、自らの生き方を探るために作ってきた、と信じている。

昭和という時代。20代の頃。自分の臆病さが嫌いで、ひたすら“強くなりたい”と欲していた。その願いを叶えるために、過激な生き方を実践している人を主人公に選びドキュメンタリーを作ってきた。カメラを向けることで彼(ら)とのっぴきならない関係を作り、退路を断って、自らを鍛えてもらいたい、と願ったのだ。「ヒーローシリーズ4作品」が生まれた。無我夢中で悪戦苦闘している間に時代は、平成へと移っていた。さらに、もっと過激な主人公を探し求めていた。が、どこにもいなかった。なぜ、いないんだろう?と疑問に思いつつ、10年という時間が過ぎて、遅まきながら、やっと気づいた。平成という時代が過激な生き方を受容しなくなったのだ、と。それは、これまでに私がこだわってきた映画作りの方法が完全に行き詰まったことを意味していた。私が描くべき主題は、なんなのか?と、悩んだ。が容易に見つかるはずもなかった。そんなとき、ある人から「大阪泉南アスベスト国家賠償訴訟」裁判闘争を闘っている人たちがいるんだが、撮ってみないか?と声をかけられた。藁をもすがる、という心境だったんだろうと、今にして思う。主題がなんなのか?を明解に掴まないまま撮影に入っていった。したがって「何を描くべきか?を探るために撮っていく」という、ほとんど倒錯状態だった。8年間、裁判闘争の終結まで撮ってクランクアップ。編集に2年。作品が完成して、自分がこだわってきたものの中身がやっと姿を現した、と思えた。ストーリーとしては、裁判闘争を闘っている民衆が主人公として構成されているが、私自身もまた民衆の一人である、という自覚に沿うならば、他ならぬ私自身へ檄を飛ばす、そういう映画なのである。

どういう檄なのか? 平成の今、戦後のニッポンを支えてきた平和憲法が未曾有の危機を迎えている。一部の権力者が己の欲得のためにこの国と憲法を作り変えようとしている。それは民衆にとってはさらに生き難く苦難へと追いやられるはずにも関わらずこの国の民衆は、唯々諾々と権力者に迎合する始末。権力者に抗う牙など、どこを探してもありはしない。そんな骨抜きにされた、平成という時代に生きるニッポン国の民衆の自画像として描いた作品である。