「山形」に続いて、「釜山国際映画祭」に参加してきました。「釜山」も、私(たち)にとって重要な体験になりました。記録に残しておきたいと思い、書きました。
「釜山国際映画祭」極私的レポート
幸いにも私たちの作品が「釜山国際映画祭」コンペティション部門に入ったことは山形でも知っている人がたくさんいた。そんな知人から「釜山で賞が取れると思うよ。頑張って!」と声をかけられた。「ん?」「釜山なら賞が取れる、ってどういう意味だ?」と、考えれば考えるほど、不可解だなあ、と引っかかった。「山形」で賞を取れなかった私の悔しい思いを知ってて励ましの言葉なのか? 単なる激励の言葉なのか? それにしても励まされれば励まされるほど、私にとっては、プレッシャーではあった。
釜山映画祭に関しては、韓国の行政側の介入があり映画祭事務局内部に混乱をきたしているというニュースが伝わってきていた。その影響だろう、事務局とやりとりを担っているスタッフの島野君がひどく苦労していた。財政的にも相当厳しいようで、招待枠は私一人、4泊分のホテル代と飛行機のチケット代のみ。今回の作品は、これまでの疾走プロにはなかった海外へ積極的に出ていこうという方針を打ち出し、海外映画祭事情に詳しい黒岩さんとスタッフの島野君との3人で臨むことにしたのだ。が黒岩、島野の分は持ち出しである。その経費を節約するために飛行機をLCCにするなど、いつもながら我々には貧乏であるがゆえの悲哀感がつきまとう。
貧乏談義はさておき、釜山に着き、空港から市内ホテルへ向かう車窓から見る釜山の都市の景観に驚いた。実に近代都市だった。上へ上へと伸びる高層ビルが林立。それらがみんな新しい。そして、まだ空間に余裕がある。未だ未だ大きく発展していくんだろうなあ、と思う。ホテルに着いてまた驚いた。映画祭のボランティアスタッフが大勢働いていたが、みんな若い。高校生かと見まがうが大学生だろう。キビキビした応対が実に心地いい。アジア最大、世界で4番目の映画祭を標榜していることが納得できる。
釜山国際映画祭は、劇映画とドキュメンタリー、アニメも含めて総合的な映画祭。日本からも劇映画が20数本、出品。上映される。当然、監督、主演女優の登場など華やかな演出が展開されただろう。がそれらは前半に集中していて我らが釜山入りした時は、映画祭特有の喧噪も収まり、我らのドキュメンタリーは後半に組まれていて、かなり静かな雰囲気だった。
さて、到着した翌日に我らの上映が組まれている。山形に続いて大阪泉南から原告団、市民の会から7名、現地入り。上映会場は釜山の新しい街のエリアにあるシネコン。上映が終わって、Q&A。山形同様に、泉南の人たちを紹介。そして作品にも登場する韓国でアスベスト被害と闘っている人たちも、この場に合流、参加してくれたのだ。この時の司会を、韓国の若手のムン・ジョンヒョン監督が自ら志願してくれた。韓国の映画状況に疎い私のためにスタッフが入手してくれて彼の作品「龍山」をDVDで出発前日に見たばかり。いやあ、なかなかの力作だった。実は、彼は司会をやるにあたって、40以上の質問項目を用意したそうだ。そのことを後で聞かされたわけだが、申し訳なかったと思う。出演者である日韓の被害者の人たちに登場してもらうと、映画に関する話題よりも彼らの運動の話題になってしまう。私としてはムン・ジョンヒョン監督とは別の機会に会ってじっくり話したいと望んだが、果たせなかったのが残念だ。
上映会が終わって日韓の被害者の人たちとの交流会。続いて食事会。ここで韓国でアスベスト被害救済の運動を展開している中年の男性から映画の感想を言いたいと話しかけられた。その彼の妻が、もう10年も前にアスベスト疾患でひどく苦しんで死んだ、という。映画を見ながら被害者の人が出てくると奥さんのことが思い出されて泣けて泣けて仕方なかったと涙混じりに語ってくれた。その話を聞きながら私ももらい泣きしてしまった。そうなのだ。泉南だって韓国だって今も現在進行形で死者が出ている。映画は完成したが、現実のアスベスト被害の闘いは終わっていないのだ。そのことを思うと胸が押しつぶされたような感じになる。
次の上映日。会場にいき、上映後のQ&Aの打ち合わせをしているときだった。事務局の女性が現れた。「あなたたちの作品に賞をあげることが決まった。なので、授賞式の時のスピーチの原稿を用意して欲しい」と。「えっ!」「賞を?」と一瞬の戸惑いのあと、「わーい! 賞を取ったんだってよ! 原さん、良かったねえ!」と一番、喜んだのが島野君。大げさではなく、飛び上がらんばかりの喜びよう。が私は慎重だった。「賞っていうが、色々あるだろ? 何等賞なんだ?」と島野君に問う。慌てて島野君と黒岩さんが事務局の女性に確認する。「一等賞だって」人差し指をまっすぐ立てて私に答える。それを見て、フーッと体中の力が抜けた。そして「何かの間違いってあるからなあ」と呟いたのだった。誰かの悪い冗談って、あるかもなあ、と口の中でブチブチ。素直に喜べないのは、私の性格がいびつなせいか? 事務局の女性から、ただし、事務局から正式な発表があるまでは、誰にも知らせないでくれと念を押された。
歓びに浸っている間もなく、まずはQ&Aだ。今日のQ&Aは「ナヌムの家」(1995)のビョン・ヨンジュ監督が司会を買って出てくれた。ビョン・ヨンジュ監督は、作品が完成して日本で上映されたときに来日し、そのときに会っている。そのピョン・ヨンジュ監督が、私たちの上映のために駆けつけてくれる、と聞いていた。姿を現した彼女に、再会を喜んだあと、今日はどこから駆けつけてくれたの、と聞いて驚いた。カナダから、この上映会に間に合うように来たんだそうな。ありがたいことである。前回の上映会に比べて、若い人が多い印象。あとで分かったのだが、ドキュメンタリーを学んでいる若い人が多かった、という。そのQ&A。ビョン・ヨンジュ監督が、極めて真面目に私のことを紹介し解説する。もっとフランクにやってもらっていいんだけど、と思うくらい。こうしたQ&Aについて、私なりに“一家言”がある。映画はドキュメンタリーであっても、エンターテイメントであるべき、それはQ&Aという場であっても、やはり同じくエンターテイメントであるべき、という態度だ。それは観客に媚びるということは意味しない。可能な限り、ホントのことを率直に語りかけることで観客の好奇心を刺激することと思っている。そういう私からするとピョン・ヨンジュ監督は、ずいぶん堅いなあ、という感じがしてならないのだが、一所懸命にやってくれてるし、観客席は、じっと耳を傾けている様子なので、見守るしかない。しかし、堅い調子は最後まで続き、終わった。
その後、賞をもらえることの「喜びを日本に伝えましょう!」と島野君。「だけど、口止めされてるんだよ」「そうだよねえ。だけど小林さんくらい、いいでしょ」とまとまり、小林に電話。「賞をもらえるみたいだよ」とぼかし気味に。ああ、もどかしい! それでも、「そう! 良かったねえ!」と例によって甲高い声で喜んでる様子。ともあれ私は、肩の荷が下りたような気分だ。 嬉しいか? と聞かれればもちろん、嬉しい。が、嬉しいうというより、ホッとした心地といった方が率直な気持ちだ。
翌朝、島野君が「柚岡さんから、賞をとったそうだがホントか?と電話がありましたよ。確認しますのでちょっと待って下さい、と答えておきましたが、どうします?」と言う。「え? ということは賞の発表があったわけか?」と混乱気味。黒岩さんが事務局に連絡する。どうやら朝のうちに公式に発表されたようなのだ。「じゃ、もう一度、柚岡さんに電話して、間違いなく受賞しました、と教えてあげよう」。島野君、再び柚岡さんに電話。「柚岡さん、大喜びでしたよ」と安堵した表情の島野君。
さて最後の儀式、閉会式だ。会場に案内されてその広さにビックリ。巨大なスクリーンが3面並んでいる。スクリーンの前はフラットでゲスト中心に席が用意されていて、後方はスタンド席。その巨大さは、どう形容しようか。武道館は円型だがその円型を解いて横方向に真っ直ぐ延ばした感じと言えばいいだろうか。ゲストたちのエリアまでレッドカーペットが敷いてある。ゲストの名前が呼ばれ、登場し、レッドカーペットを歩く。それをクレーンに乗っけたカメラが追い、巨大なスクリーンに映し出される。わーっと観客席から歓声と拍手が響く。なかなか壮大な演出なのである。ドキュメンタリー畑の私は、このレッドカーペットを歩くのが、どうも苦手である。足がぎこちなく左右に揺れて真っ直ぐに歩けないのが自分でも分かる。。やがて授賞式。名前を呼ばれて壇上に上がると、会場の巨大さがよく見て取れる。プレゼンターから花束とブロンズを渡される。2分以内で、とキツく言われていたスピーチも緊張しつつも何とか言い切って、やれやれ。興奮のひとときが終わってクロージングパーティ。ここにきて、心底、ああ、終わったんだなあ! と気持ちが落ち着く、と内心では言いたかったのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。黒岩さんが、会場のあちこちに目線を走らせている。世界の国際映画祭の関係者はいないか、と探しているのだ。あ、あの人がいる、と見つけては近づき、「原さん、紹介しますね」と引き合わせる。そうなのだ。我々の任務は終わっていないのだ。世界の映画祭に売り込みに来たのだから。豪華に盛り付けられた料理に舌鼓を打ってる場合ではないのである。
ともあれ「山形」から「釜山」へと国際映画祭への旅、第1弾は終わった。が年があけたら第2弾だ。どんな武勇伝が生まれるか、楽しみである。
遅ればせながら「山形」のレポートを書いた。私自身の記録のためにも、掲載しておきたい、と思い、恥を忍んで書いた。
「山形国際ドキュメンタリー映画祭」
告白的レポート
国際映画祭に私たちの作品が出品されたことは、これまでにも多々ある。がコンペティションに出品するのは、今回が初めてだ。そのコンペなるものが苦手である。なんで審査員たちに作品の優劣を選んでもらわないといけないのか?という疑問を抱いているからだ。今回の「ニッポン国VS泉南石綿村」は、宣伝・配給という仕事をプロに頼むことになった。今や、時代は変わった、宣伝の仕方も、と周辺の人たちから口々に言われて、そういうものかな、と思い決心したのだ。その宣伝の人たちや劇場の人たちが、しきりに山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペに出した方がいい、と勧める。実は、山形へは「全身小説家」を出したことがある。で見事に無視され、選に洩れた。そのときの屈辱感が忘れられない。もう二度とコンペなんかには出したくない、と思った。今回のコンペに応募して、その屈辱感の再現になるのが嫌だったから、という理由もあった。が、まあ、強い周辺の勧めに負けたのだ。結果はコンペにはパスした。ホッとした。が私の“不安地獄”は、ここからが始まりだった。私はこれまで、作品が完成していざ発表、公開するときに、決まって強い不安感に陥る。この作品、オモシロいと思ってもらえるだろうか?という不安感だ。どの作品も例外なく、だ。だから、試写の初めは、身内とごくごく少数の映画関係者だけの小さな人数でスタートする。次は、これまで私たちの作品を好意的に見てくれる批評家を数人というふうに。そして恐る恐る反応を窺う。そこで褒めてもらったとしよう。やはり褒められれば嬉しいし、ホッとする。が、その言葉は、元々私たちの作品に好意的な人たちなので割り引いて受け止めないといけない、というふうに戒める。でまた、少し人数を増やして試写をやる。そこで反応を見る。それを繰り返すわけだ。で私にとって今回は、厄介、かつ重要なことがあった。これまでの作品は、とんがった人を主人公に映画を作ってきた。とんがった、つまり過激な生き方をしている人を主人公に選び、過激なストーリーをもった作品。そんな映画作りを重ねてきて、描き方、つまり方法論も深めてきたつもりでいた。が時代は昭和も終わり平成になり、新しい作品のための主人公を探しても探しても、過激な主人公がいない。変だなあ、おかしいなあ、と焦った。10年探したがいない。何故いないのだろうと考えるようになった。そしてさらに10年。なんとなくぼんやり分かってきた。昭和という時代には、過激な生き方を受け入れる余裕があった。が平成という時代になると、その余裕がなくなった。それは権力者たちによる民衆への抑圧、締め付け度が強くなってきたからだ、と理解した。うーん、困ったなあ、と落ち込んでいたときに「原さん、水俣をやってみませんか?」という話がきた。続けて「原さん、アスベストをやってみませんか?」という話がきた。元々、ノリは軽い方である。「やってみましょうか」と返事した。まず、やりましょう、と答えてから下調べを開始する。順序が逆じゃないか、と言う人もいるだろう。が、やる、という前提でなければ下調べが切迫感を持たないのだ。が下調べの段階で頭を抱え込む感じになってきた。繰り返すが、これまで私はとんがってる人を描いてきた。が、水俣の人も、アスベストの人たちも、とんがってるどころか、ごくごく普通の人たちだなあ、という感慨しか持てなかったのだ。困った。ほとほと困ってしまった。20代の頃、ドキュメンタリーを作るという生き方を選択したときに思い決めたことがあった。自分は、怠惰でひ弱(肉体的にも精神的にも)で、コンプレックスが強くて、とダメダメオンパレードの自分がいて、だからこそ、主人公を、強く、優れて、心から尊敬できる人を選び、私の弱い部分を鍛えてもらいたい、と思ったのだ。だから普通の生き方をしている普通の“生活者”を絶対に主人公に選ばない、と決めたのだ。だが、水俣の人たちもアスベストの人たちも、どう見ても普通の人たちだった。普通の人たちを撮ってオモシロい映画なんかできっこないじゃないか、と思っていたからだ。だが、もう、やります、と答えていた。さて、どうしたものか? 二進も三進もいかない感じ、袋小路に迷い込んだ感じだった。だから、よく下調べをして、やれる、という感触を得てから相手にやります、と答えればいいじゃないか、と言う人もいるだろう。が、そこのところの考え方が違う。のっぴきならないところに追い込まれないと、本気で考え始めない、という困ったキャラなのである、私は。水俣もアスベストも縁あって私に声をかけてくれた人がいた。もちろん、それは私への厚意と期待である、と受け止めている。が私は、それを挑発と受け止めるべき、と言い聞かせている。「あなたに、できますか?」と言われているんだよ、と。そう言われて、できません、と答えるのは癪だし、悔しいじゃないか。だから、クソッと言いながら頑張るのである。つまり、そういう頑張り方を、これまでもしてきたし、これからも基本的には変わらないだろうと思ってる。20代の頃に思い決めた決意と覚悟は、その方法に変わる描き方を見つけ出さない限り、作り手としてはこれから作品を作れない、という窮地に追い込まれてしまってる私にとっては、目の前の、この申し出を、チャンスと思って取り組み、私にとっては新しい方法を見つける以外に生き延びることはできないのだから。
「水俣」のことはさておき「アスベスト」の方に話を絞ろう。理論的には自分自身を納得させた私であったが、実際に撮影に入っても、目の前には普通の人たち。これでオモシロい映画になるのかしら?という不安は、最後の最後まで続くことになった。8年半続いた裁判が終わり、したがって撮影も終わり、その時点で、オモシロく撮れたという自信とて全くなく、編集に入っても、これはオモシロい作品になるという確信なんか全く持てず、完成後もおそるおそる内覧試写をやって好評の雰囲気はあるものの、不安は解消されず、山形へ向かうという展開。長い長い前置きになってしまったが、私の不安の内実を分かって頂けるだろうか?
その山形。2回、上映が組まれている。その1回目。会場の市民公会堂がとにかく、でかい。ここで上映に先立ち、音量チェックをするわけだが、思わぬアクシデントが発生。観客席の後方が斜面に設計されている。したがって前の方へと下る階段がついている。係の人がスクリーンに映像を映している。音量は?と聞かれて中段まで移動して判断しようと階段を降りる。が、真っ暗だ。おそるおそる階段を降り始める。と、アッと言う間もなく体が宙に浮いた。ヤバイ! と思った次の瞬間、上顎をゴツン! とぶつけてしまった。下りの階段なので転ぶ角度も大きく、加速もついたのだろう、上の歯並びに痛みが走った。ああ、歯が折れてしまったかなあ! が頭をよぎる。私の転倒を見て急いで場内を明るくしてくれた。スタッフが駆け寄ってくる。「大丈夫ですか?」「大丈夫じゃないよ」と正直に答える。「あーあ、上映の前に転倒するなんて、何か良くないことが起きる前兆なのかな?」と愚痴る。放っておけば直るからと言う私にレントゲンを撮って確認した方がいい、とスタッフに強く言われて、病院へ。ため息つきながら待っていたら、「紹介状がないので初診料を¥5000頂きます」と言われてカーッと頭にきた。救急的なアクシデントで来たのに紹介状を求めるのか! 理不尽な! と思った私は「診察、けっこうです」と病院を後にした。そんな幸先悪い出来事があっての上映スタート。息を潜めて成り行きを見守る。無事、終了。大阪から駆けつけてくれた原告団、弁護団、市民の会の人たちを観客に紹介。続いてロビーでのQ&A。熱気が感じられる。この後からである。会場の中のあちらこちらを歩いていると、私の顔を見つけて、満面の笑みを浮かべて近づいてくる人が一気に増えた。そして「良かったです!」と言ってくれる。相当の数の人が、である。海外の人も含めて。いやあ、嬉しかったなあ! 何の利害関係のない人たちの言葉だから、100%、素直に受け止めていいんだ、と思う。ホッとした。内容的にはいけてるんだ、安心していいんだ、と自分に言い聞かせる。普通の人を描いて、オモシロいと思ってもらえたんだ。とりあえず私にとってはもの凄い解放感だった。長い長い間、普通の人を撮っておもしろい映画ができるわけがない、と悩んだ末に「オモシロかったです!」と言ってもらえた嬉しさ。翌日2回目の上映。やっとリラックスして見れた感じがする。けっこう笑えるシーンがたくさんあるんだなあ、と初めて思えた。
さて、こうなると欲が出る。「観客賞」を狙おうよ、とスタッフと会話のグレードがあがってきた。その後も私に「良かったです」と声をかけてくれる人が絶えなかったからだ。もしかしたら……と期待が膨らんだ。表彰式の日。いよいよ発表の時。いの一番が「観客賞」の発表だ「ニッポン国……」と聞こえた一瞬、やった!と喜びが溢れた。人生の中でも、こんなに嬉しい一瞬なんて、そうザラに訪れることがないだろう。
こうなると欲が出る、と先に書いたが、実は、もうひとつ欲が出ていたのだ。審査員が選ぶ本賞の方だ。予想を遙かに超える人たちの賛辞が、私(たち)の欲に火をつけた。もしかしたら本賞の方もいけるかも、と。せっかくのコンペティションなので、時間が許す限り作品を見ようと臨んだ映画祭。だが取材やら打ち合わせで見れない作品も出てくる。それでも10本は見れた。それらと我らの作品を比べて、私たちの作品の出来が劣っているとは思えなかった……と書いて思わず苦笑い。エラい自信やなあ!と。山形に来るまでの、あの不安感はどこへいったんや? という感じだ。でも、ここで、これだけ受けたのだから、ということが妙な自信を支えていた。だから、表彰式で最初に呼ばれてからは、私の心の中で、もう一つ、もう一つ、と最大級のドキドキ感が増幅していた。が、最後の最後のロバート・フラハティ賞になっても、私たちの作品がよばれることはなかった。この時の脱力感をどう表現したらいいのか? 足が地に着かない。観客席の音も聞こえない。多分、私の視線も虚ろだっただろう。後日、幾度も幾度もこの時のことを反芻するのだが、決して一等賞を期待していたわけではない。いや、正直に言うと、もしかしたら、という淡い期待はあった。がリアルに言うと、15作品のコンペ作品の内、5作品が賞に入るわけだから、その中には入るだろうと思っていた。が結果は、ついに呼ばれることはなかったのだ。
表彰式の後、私の顔を見つけてたくさんの人が「市民賞、おめでとうございます」と声をかけてくれる。ありがたい、と思い笑顔でお礼を返したいのだが、顔が引きつってうまく言葉が出ない。間違いなく市民賞は嬉しかった。10年悩みに悩みながら作ってきた私の背中を、これでいいんだよ、と押してくれた、と思っている。が本賞が何も取れなかったことが、気持ちをひどく沈ませた。審査員たちは一応映画のプロだと思っているが、そのプロからすると作品の内容が賞の対象にするほどの出来ではない、と言われたことを意味する、としか考えられないからだ。それは、作り手にとっては、とても悔しいことだ。もちろん賞を狙って作品を作るという気持ちは微塵もない。だから賞が取れなかったからといって落ち込むことないじゃないか、とは思っている。が、作品の方向性が認めれないということはツライものがある。この賞を取れなかったことは、どうやら長く尾を引きそうだなあ。
ニコ生を始めたのは、原稿を寄稿していた縁で「メディアゴン」から「ニコ生を始めたんですが、何かオモシロいこと、やってみませんか?」と誘われたのがきっかけだった。「機材も送り出しのスタッフもこちらで全部やりますから」と言われ、では中身だけに集中してやればいいんだ、ならば、「CINEMA塾」をやってきたノリでなら“昔取った杵柄”だ、やれるだろう、と思い引き受けた。
その時々に、新作が公開されるタイミングの監督をゲストに招き、率直に映画に関するトークを展開するというもの。1回目のゲストは紀里谷和明、2回目のゲストは塚本晋也と、中身はそれなりに濃いトークになったハズ。が、送り出しの機材関連でトラブルが発生した。私に声をかけた「メディアゴン」が用意したスタッフもニコ生に慣れていたわけではない。彼らとて試行錯誤でスタート。だが、トラブルが発生したことより、その時の対応で「メディアゴン」のスタッフに不信感を抱いてしまった。2回目のOn Airのあと、私は「こんなにトラブルが連続して発生するようでは視聴者に対して責任がとれないじゃないか! ニコ生で番組を主宰する資格なんかない!とキツい批判をツイッター上にアップした。ネットメディアはトラブルが起きやすいものだよ、と周囲の人たちが教えてくれたのだが、後の祭り。私のツイッターを目にして主宰者が切れた。「私たちは降ります」と。何だよ! そちらが誘っておきながら無責任な! と怒りが増幅した。
さて、どうしたものか? と思案したが、次回の予告を既にしていたのだ。だから、今さら「主宰者がおりましたから、辞めます」というわけにはいかないよな、と私のスタッフの島野君と相談。「じゃあ、自主制作でやるか!」と継続を決意したのだった。
そこからが、“茨の道”だった。毎回、薄氷を踏む思い。ああ、今月はパスするしかないのか!と諦めかけたことも、しばしばだったのだ。友だちの友だちは友だち、と伝を手繰って、何とか「原監督のお手伝いなら喜んでやりましょう」と会社を起こしたばかりの若い人たちが言ってくれた。嬉しかったなあ! On Airするためには、放送機器類、操作できるスタッフ、スタジオの3点が必要なのだが、この新しい会社の人たちは、全部、提供してくれるという。有り難かった。阪本順治、遊山直奇、再び阪本順治、岸善幸、西原孝至と続いた。が、会社を起こしたばかりで、その会社を大きくしなければならず、私たちへの協力が次第に負担になってきた。そりゃそうだろうと思う。もうこれ以上の協力は難しい、ということになった。やむなく次を探した。ネット番組を配信しているある団体が、スタジオと機材も含めて1万円という格安で貸してくれることになった。ここで橋口亮輔、東陽一、深田晃司と無事に放送できた。で、スタッフの一人が自分の仕事の関係上、次回は参加できない、つまりそのスタッフが参加することで貸してもらっていたのだが、そのスタッフが不参加なのでそこが貸してもらえないことになった。またまた苦境に。小さな居酒屋でいったん話が決まった。が、直前になって、難しくなったと断ってきた。万事休す! 今回はパスするしかないのか、と落ち込んでいたがスタッフの粘りで奇跡的に高円寺のライブハウス店と出会えた。会場費は要らない。ただし、場所代の代わりに観客からドリンク代として1000円を頂く、ということで話がまとまった。この時に、ライブハウスなので、ニコ生用の機材はない。ならば、ということで、新規に買い揃えることに。約20万円の出費。ここで平山秀幸。そして再び、ある団体のスタジオでやれることになり、そこで細野辰興。
我が番組の看板だが、スタート時は、ニコニコ生放送「メディアゴンチャンネル」【原一男 ゆきゆきてシネマ 過激にトークを! 自由にバトルを!】と名乗っていたのだが、自主制作に踏み切ってからは、【原一男のニコ生「CINEMA塾」】に改称した。番組のスタッフだが、無論ギャラなんか払えるわけもなくボランティア。だから、各スタッフの空き時間を調整しながらになる。
こんな不安定で“綱渡り”状態の中を、スタッフの脅威の粘りで、メディアゴンからカウントすると計12回、On Airできたわけだ。これだけでも奇跡に近いと思っている。
ハード的な問題点は、毎回、起きているが、ここでは触れない、内容に関しては、感じるところはアレコレある。ゲストの年齢層だが、何せ私自身が70才を越える立派な“高齢者”。だから私より年長のゲストは必然的に希少になる。東陽一監督のみである。あとは、全部私より若い監督だ。率直に言って私の好み、と “食わず嫌い”で避けてきた監督を呼ぼうか、ということになり、学習のために以前の作品をまとめて、じっくり観るわけだが、そんなふうに集中して観てみると、これが実に勉強になる。今時の言い方をすれば、リテラシーの勉強になるのだ。私はこれまで自分より年長の先輩監督に注目して学ぼうという意識が極めて強かった。が、若い人を舐めてはいけない、と強く反省。才能豊かだなあ、と自分の不明を恥じることが、しばしば。放送時間は2時間。この時間は、集中してゲスト監督に質問をぶつけるわけで、かなり濃密な時間なのだ。終わるとグッタリと疲労感がある。が決して不快な感じはない。教えてもらったなあ、という喜びで満たされる。
年が明けて、まだまだ続けられる体力はある、と思っている。ゲストも監督だけでなく、出演者も呼びたい。出張ニコ生、つまり地方や、大学等へ出かけることもやってみたい。我が番組の置かれている状況は厳しいが、夢は広がっているのである。
(2017.1.3記)
12月29日、5回目のオールラッシュ。尺は、最大4時間ほどあった長さが3時間38分にまでになった。今回は、最終版を始めて見る、島野君、千葉さん、古谷さんの3人から意見を聞くこと。
「作品の長さは、観客の生理的な観点からいうと2時間が理想」という考え方を、私も知っている。だから原則的には、2時間に近づけるという意識を持って編集に臨むことにしている。渋谷「シネマヴェーラ」で2月に上映したときの長さが2時間14分だった。その時に観客の反応は、もう少し長くても大丈夫だよ、という意見が多くあった。原告団の人たちも、同じく、もうちょっと長くても、という意見。その意見に力を得て(?)、よし、ならば、と、それまでに外したものを全部チェックし直そうと考えた。実は、何が何でも2時間に近づける、という意識でつないでいるときは、これ以上は入らないから、と現場での記憶を拠り所に判断して外していたシーンが多くあったのだが、入れたいシーンはみんな入れてみようと基本的な態度を変えてみると、あれも入れたい、これも入れたい、と一気に4時間にまで膨らんできた。8年間、撮影を続けてきたんだもの、落としたくないよなあ、というシーンがたくさんあって当然だ、と思いつつ、さて、しかし、いったん入れ込んだシーンを外すのはツラいものである。ここからが、真に編集のヤマ場が始まったなあ、という感じがする。編集の秦さん、構成の小林と議論を交わしながら、ディティールを詰めていく。
実は、私は、今回のこの作品、撮影しながら“おもしろい映画になるんかしら?”と不安で仕方なかったのだが、最終版の編集の過程で、“けっこうオモシロいじゃないか!”と思えてきた。「神軍」や「極私的エロス」の質とは違う、庶民=生活者の生き方がもつ様が描けているなあ、と。
が、個々のシーンにオモシロいところがあったとしても、果たして、3時間半という長さに観客がついてこれるだろうか?と危惧をスタッフの島野君は言う。もっともだと思う。だが編集をしながら、私は、疾走プロ最長の作品になるだろうが、これで、いいんだ、と思えるようになってきたことも確かだ。だって裁判闘争を描いてきたわけで、その裁判闘争自体が8年間かかったわけで、その全体を描くために作品が長くなるのはやむを得ないではないか、と思う。もう一点、原告団の人たちの数が、一陣、二陣含めて50名を越える。それらの人たちの魅力を描こうとすると、頭数が多いんだもの、必然的に、長さが伸びてしまうのも、これまた、やむを得ないことだと思う。構成とプロデューサーの小林としばしば意見がぶつかった。少しでも短く、と主張する小林の気持ちも分かるが、腹を括った。内容、テーマからして、どうしても長くなければ描けないものもあるのだ、と。3時間半という長尺だからこそ、伝えられる世界だってあるはずだ。作品の長さとは、作り手自身が納得できる内容があると信じているからこそ、決まってくるものだ。3時間半と聞いただけで、見ることを放棄するような観客ならば、「見てくれなくてけっこうだ」と居直ることにしよう。そんな態度を「作り手の傲慢だ」と言われるならば、甘んじて受けよう。今回の作品、“市民運動”を扱ったもの、映画館で公開して大ヒットを期待する、というようなタイプの作品ではない、と自分でも分かっているつもり。もちろん作り手としては、あらゆる映画はエンタティメントであるべき、と信じている私は、おもしろさは追求しているつもりだ。が題材からくる印象は、堅い内容、難しいテーマ、暗くて、理屈過剰で、退屈な映画…と興業としては不利な印象を持たれる不利さは否めない、と思っている。劇映画、ドキュメンタリーを問わず映画は、人間の感情を描くものである、という理論を信じているのだが、「まあ、観てみてください」と言うしかない。胸突き八丁、もう頂上は見えてきた、という感じだ。もう一息、最後まで頑張ろう、と自分に言い聞かせている。
(2017.1.2記)
まさか、このような展開になるとは露とも思ってみなかった。まさに「寝耳に水」。
週刊金曜日8月19日号は「さようならSEALDs」と題したSEALDs特集。特集のメインは、奥田愛基さんと私の対談。さらに、奥田愛基さんと私とが並んだ写真が表紙を飾っている。昭和20年(1945年)、敗戦が決まる直前に防空壕で生を受け戦後民主主義と共に生きてきた私にとって、“戦後民主主義が未曾有の危機にある今、あなたは、私は、どう闘う?”を週刊金曜日誌上で追求したかった。そうしたテーマで今後、週刊金曜日で対談の連載企画を進める話にもなっていて、担当編集者の渡部編集部員と私と私のスタッフで構想を練り始めていた。「さあ、連載、がんばるぞ」と意気込んでいた矢先の出来事だった。
発端は「ツイッターで問題が起きてますよ」という私のスタッフからの連絡。さっそくツイッターをみてみた……。週刊金曜日8月19日号の表紙には「さようならSEALDs」、裏表紙には「ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター」と題する鹿砦社の本の広告が掲載されていて、それへの批判的な書き込みが、かなり多数アップされていた。書き込みは、「表紙と記事本文でSEALDsを持ち上げておいて、裏表紙で広告を掲載することで叩くなんて、ヒドく無節操である」「裏表紙を見たので買おうという気が失せた」などというものであった。
はあ! と頭を抱え込んだ。出鼻を挫かれた思いだ。せっかくの企画が、雲散霧消してしまうのか!と悪夢に襲われた感じだ。
それにしても、何故、こういう問題が起きたのか? 悪意ある誰かの意図があったのかどうか?
まずは事実経過をハッキリ確かめよう、と渡部編集部員に連絡。8月24日の社員会議でその問題を質すというのでそれを待つことにした。その結果。
①そもそも鹿砦社の広告自体は、以前から月1回掲載(基本は第3週目掲載)していた。「ヘイトと暴力の連鎖 反原連-SEALDs-しばき隊-カウンター」の広告が載ったのは8月19日号が2回目。なので、SEALDsの記事が掲載されることを狙って、という悪意があってのことではなく、たまたま重なっただけのこと。
②とはいえ、北村発行人と平井編集長は、誌面発売の約2週間前に表紙と裏表紙の色校が刷り上がってきたときに、SEALDsと鹿砦社とが表紙と裏表紙でバッティングしていることに気付き、なんらかの“まずい”状況になるかも、という懸念を抱いていた。が、平井編集長はその懸念を担当編集者の渡部編集部員に相談することはなかった。鹿砦社の広告をズラすことも不可能と判断した。
③広告の担当者は「雑誌とは『雑』を載せてるんだから」という理由から、鹿砦社の広告と「さようならSEALDs」特集がかぶることが「まずいとは思わない」「鹿砦社の表現の自由は守らなきゃ」と話していたそうな。平井編集長は「ダメな広告なら載せない。鹿砦社の広告は自分たちが審査をして通っている」と話したという。
④表紙と裏表紙の色校は事前に印刷され、編集部員は誰でもみることは可能。渡部編集部員は、取材や記事の編集などに追われていて、平井編集長から今回のことを知らされなかったことと、裏表紙の担当ではなかったこともあり、表紙の色校は見たが裏表紙はチェックしなかった。どのみちこの時点では気付いても、上層部の判断により、裏表紙を変えることはできない段階だった。
⑤一連のトラブルの動きを渡部編集部員に約2週間知らせることがなかった理由を平井編集長に問うと「伝えようと思ったけど、忘れただけ」「ヒューマンエラーですよ」という説明。結局、誌面発行後の段階で編集長はその事実を伝えてきた。
はっきりしたことは、悪意ある意図はなかった、ということだ。それが分かりホッとしたことは確か。が、それでも残る疑問というべきか課題があるように思える。
①週刊金曜日といえども商業誌。定期的な広告収入源である鹿砦社との関係を壊すのは難しい、というポイント。が、そもそも週刊金曜日は内容の中立性を保つためには、広告に頼らないという方針を目指したハズ。その方針に賛同し、週刊金曜日を支持、購入した読者に対しては、裏切りにならないか?
(この疑問に、北村発行人は「売り上げ全体に占める割合からしたら広告に依存はしていない。ただ、広告収入がなくなるのは大変」、平井編集長は「広告収入に依存しないというのは、広告主に対してどんな記事が載ろうと遠慮はしないということ。むしろSEALDsの顔色うかがうのはSEALDsに依存している」と話したとか)
②次の疑問。表紙の目立つところに“編集委員”という人たちの名前が記載されている。錚々たる顔ぶれだなあ、といつも思っていたのだが、こういう問題のときに、真っ先に発言があって然るべきじゃないのかな?
が実態は、それらの著名な人たちが編集に関わっていないようなのだ。だから発言は無し……とやり過ごしていいことなのかどうか、だ。これって羊頭狗肉ではないか?
一見、週刊金曜日内部の問題かのように見える。が、そうだろうか?
ひとりの編集部員が誇りと意地をかけて汲み上げた記事を、同志であるべき同じ編集部の長である人が、本来、支持し守るべきところを、あろうことか泥をぶっかけたに等しい。メッセージに込めた祈りを汚したのだ。70年代、このような人たちを“内部の敵”と呼んでいた。今や、この“内部の敵”という魑魅魍魎が跋扈していることに気付くべきなのだ。その魑魅魍魎たちがニッポン国の至るところに巣くっていることに。
SEALDsは解散した。彼らは個に戻って、今後は個として闘っていく、と宣言。若い彼らは、記者会見に集まったメディアに向かって「あなたたちも、個として闘ってください」と強烈なメッセージを放った。私もその場にいて、彼らの檄を聞いていた。その通りだと思った。
もしまた、同じような問題が発生したとしたら? それは、“悪意はなかった”ではなく、“悪意あって、起こるべくして起きた”ということを意味する。コトは広告問題。再び、起きる可能性は十分にある。が、幸い(?)にも編集長は、我らの連載企画にはゴーサインを出しているとのこと。ならば、我らの発する言葉に磨きをかけ、過激で先鋭で、濃密な記事内容を作ることが、為すべきこと、と私は今、闘志をたぎらせている。
「シン・ゴジラ」劇場用予告編が公開されている。
実は…と断るまでも無いのだが、私も出演している。チラシの裏に端役に至るまで全員の出演者の名前が掲載されていて、私の名前を見つけた人から「なんで?」という書き込みがツイッター上で散見されていて、ちょっとした話題になっているようだ。そんなこともあって、“出演の弁”を明らかにしておきたい。
“俺は、今後、役者をやりたい!積極的に売り込む!”と宣言した。
と言っても、大々的にやったわけでもなく、ごく親しい友人知人に打ち明けた程度。そのスケールは小さいけれど、かなり本気のつもり。
どういう心境の変化? と聞かれても、何かが劇的に起きてのことではなく、カメラの前で芝居をする楽しさを、自分も追求してみたい、という気持ちが少しづつ募ってきたわけだ。売り込み方だが、監督と知り合い、直接、直談判する、という戦法でいこう、と思い決めた。
その第1弾。2014〜2015にかけてnew「CINEMA塾」を開講。その講座で庵野秀明監督をゲストに呼んだ。講座が終わって彼に「俺、役者、やりたいんだよ。あなたの作品にだしてよ」と声をかけた。「本気でやりたいの?」と聞くから、「うん。本気だよ」と答えた。しばらくして庵野監督がゴジラを手がける、というニュースを知った。覚えてるかな?と不安混じりに彼にメールを出した。「東宝に話を通しておくから」と嬉しい返信。数日後、その東宝から、「出演していただきたいんですが…」と。
ま、そんな経緯で実現することになった。
シナリオが送られてきた。凄く、ぶ厚い!ビックリ。通常、私たちが慣れている台本の厚さの2倍はあるな、って感じ。 役の数も半端じゃない!
一読すると、これまでの“ゴジラ映画”とは、かなり趣が違う。家族向け映画では無く、シリアスな“社会派”という感じ。
私の役はというと、老生物学者。ゴジラという未知の存在の出現に苦悩する総理はじめ政府の役人たち一堂に対して意見する、という内容。台詞は短いもののストーリー上、意味のある役柄だ。ま、役に関してアレコレ言う筋合いはないけどね。役をもらえただけで感謝!
衣装合わせの日。東宝に出向いた。実は、私の出番は、老生物学者だけでなく他の分野の学者共々3人、政府に意見を言うわけだが、他の二人というのが、同業の映画監督の、緒方明と犬童一心。緒方明は日本映画学校時代、共に教鞭を執っていたので顔見知りだったが、犬童一心は初対面だった。私は二人を見ながら秘かに考えた。二人とも、実に堂々たる“怪異な風貌”(?)なのだ。いや、けなしているわけではない。褒めているのだ。私なんか、のっぺりして、なんの特徴も無い平凡な顔つき。二人が羨ましかったのだ。緒方明なんか、白髪交じりの顎髭を豊かにはやしてるし、犬童は、元々が、怪異。3人並ぶと私は絶対に見劣りするだろうなあ! こうなったら“演技力”でカバーするしかないな!と。
さて、撮影当日。東宝の中でも最も広いステージにセットが組んであった。さすが、超大作なんだ! と納得。庵野監督に会う。役を付けてくれた礼を言いたかった。「台詞は入ってますね。テストの時から回していきますからね。」と庵野監督。「はい。大丈夫です!」と私。ホント、自信があった。これまで、今回よりもっと長い台詞を一発OKという実績もあった。だから、まず大丈夫だ、と自分に言い聞かせて、さて、いよいよ撮影開始。本番! 用意! スタート! 学者が3人並んでるわけだが、まず緒方から。台詞も軽く流し芝居もスムース。次は、隣の犬童。これも台詞軽く、芝居もストレート。で、続いて私の番。先の二人が台詞を無難に言ったなあ、よし、俺は腹に力を込めてセルフを言おう、と思い決める。で、目に力を込めて総理以下役人たちを見回してから、おもむろに台詞。決して長くない台詞なのだが、途中までいって、その半分のところで、ひっかかってしまった。ありゃあ、と焦る!「ゴメン!」。平謝りしながら、もう頭は、真っ白! 「はーい。原さん、続いていきますからね。よーい、はい!」。が、2度目もNG。同じところで、つっかえるのだ。3度目、4度目、同じだ。助監督が慌てて近くに寄って台本を私に見せる。目で確認する。「OK」。「大丈夫です。やりまーす」と、トライするが、またまた…。業を煮やしたか、「カメラを回しっぱなしにしておくから、自分でやりよいようにやって」と庵野監督。たしかに「良—い!はい!」のかけ声は緊張する。そこを、外すと、自分のリズムでできるだろう、という配慮。恥ずかしいやら有り難いやら。気持ちは、もはやグジャグジャ。が、「はい。好きにやってください」と言われ、カメラが回り、自分で呼吸を整え、台詞を…が、気分は楽になったが、やはり、つまってしまい、続けてカメラを回しっぱなしで2回繰り返したかな、何とか、最後まで言えた!
フーッ!ホントに、ホッと一息ついた。やれやれだ。「はーい!OK」。
冷や汗だらけだ。後は、続けて切り返しを数パターンとって、終わった。
私のNGの連続のせいで、小1時間は、ゆうに無駄にしてしまった!
ホントに申し分けないという思い。
セットをでたところで、庵野監督にバッタリ。
「台詞、入ってないじゃないですか?」
「役者は、止めた方がいいですね。」
キツーい内容の言葉は、致し方ないとして、庵野監督の表情からは、マジなのか、半分冗談なのか、判別がつかない。ひたすら恐縮するしかなかった。
スタジオからの帰り道、うちひしがれてトボトボと成城学園駅まで、やけに遠かった。が、完成した作品をみれば、多分、いや、絶対に他の二人より私の方が、キチンと芝居をしてるはずだ、と、そう思うことだけが救いだった。いや、無理矢理そう思うことで、自分を慰めたかったのかも知れない…。
ニコ生「CINEMA塾」4回目は、阪本順治監督。彼は早くも2回目の登場です。
今回、取りあげる作品は「団地」。今回のトークのために阪本監督の過去の作品は、スタッフに強く薦められてみた「魂萌え!」。これが、見てビックリ。その出来のすばらしさに、もう、舌を巻きました。うまい!ってことです。主人公の風吹ジュンの演技の素晴らしさもさることながら、彼女演じる中年女性の感情をここまで深く、艶っぽく、的確に演出できる阪本監督の技量、センスに驚いたのだ。今はDVDでしか見られないのだろうが、一見をお勧めする。そして最新作の「団地」。コレがまた傑作なのだ。決して大笑いするようなタイプではないが、クスクス笑える演出は見事なものだ。しかも、こんなストーリーってありなの?って、あきれること請け合いだ。
したがってニコ生放送では、絶賛絶賛の連続。彼に“名匠”という称号を上げてもいいとさえ思っている。今や小津安二郎クラスに匹敵する監督だと思っている。表面上だけで褒めているのでなく心底、尊敬している。が、いくら名監督といえども、全作が傑作だとは、いえない。阪本監督は、大作はイマイチだなあ、という感じはある。だから私が傑作だと思っている作品は、小品、というべき、予算の厳しいものだ。阪本監督本人に言わせると、自由度がある、そうな。なるほどね、と納得。私があまりに、大作はイマイチ、と強調するものだから、大作は大作として挑戦してみたいと思う、と言う。その発言ももっともだと思う。あまり、大作がイマイチ、と言い過ぎると監督としての仕事が来なくなっても困る、と言われて、それもそうだと、反省。
私はこれまで私より年長の巨匠といわれる監督たちを目標に学びたいと思ってきた。がその考えに変化がでてきた。阪本監督は私より一回りほど年令はしただが、私より若い人のなかに、うまい人がいれば、その若い監督から学ぶべき、だと思えるようになった。その第一人者が阪本順治監督であることは紛れないことだが。
(2016.6.30記)
「劇場版 命て なんぼなん? ニッポン国泉南石綿(アスベスト)村」の編集が、急ピッチで進んでいる。
足かけ9年かけて、回したテープが、60分テープを500本、我ながら莫大な量を撮影したものだ。それを2時間10分に凝縮しようというわけなので、内容の選択を悩みに悩むわけだ。
それでも今日現在、小林が頑張って2時間25分までに縮めてくれた。が編集ラッシュをみると、外したシーンのアレヤコレヤが気になり、やっぱりアレも入れてみようよ、これも足してみようと、尺を増やす方向で言い募ってしまう私。コレじゃ“イタチごっこ”だ。ちっとも短くならない!
そんな悪戦苦闘を繰り返しながらも次第に明確になりつつある作品の全容。これ、オモシロイかなあ?という不安が増幅する。これまで、私が思い描くような映像が撮れたという実感がなく、結局、裁判が最高裁までいき、判決が出て、運動が終結し、したがって撮影も自動的に終わった次第。ドキュメンタリーのクランクアップというものは、作り手が、撮れた! と納得をし、これで終わっていい、と自然に思える時がクランクアップの時である、と常々発言してきた私としては、まだ撮れていない、と思い続けていたにもかかわらず、終わってしまうことの不満。だが、どうしようもない。撮るべき対象がフェードアウトしてしまったわけだから。今は、コレまで撮れた映像をチェック、吟味し、構成を立て、編集をする以外に、手は無い。
1本の大木を、彫刻家が削り、仏を彫る、というテレビ番組を見たことがあるが、不思議な思いを抱きつつ、“へえ、1本の樹の中に仏が存在しているんだ、と感銘したものだ。それに似て、500本超の撮影済みテープの中から、どのようなイメージが姿を現してくるんだろうか?と、それはそれで興味津々ではある。撮影段階では作り手自身がよく理解してなかったことが、あなたたちが撮影していたことは、こういうことだよ、とこれまで姿がなかったものが明解な形を持ってたち現れてくる、そしてその姿をある感動を持って眺めている、という構図。その、姿を現したもの、それこそがテーマと呼ぶべきことなのだろうと思う。
では、全く意識していなかったか?と問うてみると、漠然と意識はしていたのだと思う。オールラッシュを見ながら、そう思う。
さて、これまで私は様々なイベントの場で「新作は?」と問われ、「アスベスト裁判闘争を闘っている泉南の人たちを撮っています。 人の生き方を“表現者”と“生活者”というふうに分けた場合、泉南の人たちは、もろ“生活者”なわけですね。私は20代の頃、自分は“生活者”にはなりたくない、と否定的に考えていました。昭和の時代に私(たち)が作ったドキュメンタリーは“表現者”たちを描いたわけです。が平成になった今、もろ“生活者”を撮っている。これは紛れもなくジレンマなわけです。このジレンマについてズーッと考えてきました。しかしそれを越える答えが未だに見つかっていないんです」と答えてきた。
何とも情けない話だ。まもなく生まれ出んとする作品を目前にして、まだ、その作品を支える方法論を確立できずにいるのだから。
方法論――昭和には昭和を描く方法があるべきだろうし、平成には平成を描くべき方法があるだろうし、と考える私。昭和という時代に作った疾走プロ4作品は紛れもなく“昭和の精神を記録したドキュメンタリー”と思っている。ということは、本作は平成のドキュメンタリーであるはず、ということになる。
だが私の実感としては、肝腎の方法論をつかめていない! 正直に言えば、本作に取り組む中で方法論を掴みたい、と願ったのだ。
新作を編集しているときはいつだって不安なものだ。こんな作品、見てくれる人、いるんかしら? と。「極私的エロス」の時は、こんな自分自身の三角関係を描いた映画なんて観たいと思うのかなあ? という不安。「神軍」の時は、「こんな身勝手な奥崎謙三を描いた映画なんて反感を買って誰も見てもらえないんじゃないか?」という不安。まあ、基本的には私は“不安症”的な性分であるとも言えるのだが。だとしても、本作は運動の映画、今時、運動の映画が多くの人の関心と興味を引きつけるだろうか?という不安。しかも題材は、大阪の外れの小さな町の小さなグループの闘い。全国区の運動ではない。もちろん運動の本質は、決して小さくはないのだが、それは当事者の思い。受け止める一般の人たちにとっては、知名度は圧倒的に少ない。こんな“地味な”映画を観てもらえるだろうかと不安が増幅するばかり。
もうよそう。シネマヴェーラ渋谷での完成披露上映まで、残すのは1週間。とにもかくにも、内容をブラッシュアップして、なお、2時間10分の目標の尺数を実現しなければならない。愚痴は、後回しだ。
(2016.2.5 記)
第1回「阪本順治篇」無事、終了しました。いやあ、私としては実に充実した時間でした。阪本監督はこちらの質問に対して率直に答えてくれていることがビンビン伝わり、爽快でした。
さて、“原一男ニコ生「CINEMA 塾」”と看板を掛け替えての第1回目だし、何か目新しいことはないものか?と思い、アメリカの「アクターズスタジオ」を思い出し、真似てみることを思いついた。さっそく10の質問事項をスタッフと練った。
● あなたにお聞きします。正直に答えてください。
という前振りがあって…
① 自分は、世界の中でもトップクラスの監督である、と思ってる?
② 自分の作品の中で、どの作品が、最高傑作だと思ってる?
③ 自分の作品の中で、どの作品が、失敗作だと思ってる?
④ どの作品が、最もヒットしたの?
⑤ どの作品が、最もコケたの?
⑥ あなたが、これまで殺したいと思った人、何人いますか?
⑦ 女優と付き合ったことは、ありますか?
⑧ 最近、いたしたのは、いつですか?
⑨ この世で最も、イヤなこと? 嫌いなこと? 憎むこと?
⑩ 映画監督で食えなくなったら、どんな職業を探しますか?
どうだろう?
この質問を番組の最初にするか、終わりの〆にするか、と議論。私は終わりの〆でいいかと考えたが、スタッフが冒頭の方がいいと主張、中身のアレコレ質問するヒントになるから、と言う。なるほど、そうかも、と同意した。
で、こちらの発想としては、番組のスタートは軽く入ったほうがいいだろう、と考えたわけだが、果たして“軽く”入れたのかどうか?
いやあ、阪本監督は、けっこう考え込んでしまって、隣に座っている私としては、アレレ、これは軽くなかったかな?と後悔の念が起きてしまったくらい。
あくまでも、イントロなんだし、軽いジャブのつもりなのだが…。が、彼は、根が真面目なんだろうなあ、と再認識。マジに、笑い飛ばし、はぐらかし、冗談でもかまわない、くらいの気持ちだったが、一つ一つの質問に真っ当に答えてくれたのだ。それはそれで、きっちり濃い反応ではあったが。
この10の質問の中で最も気がかりだったのは、「⑧最近、いたしたのは、いつですか?」だ。あまりにもプライベートな内容であることは、私だって分かっていた。こんなヤバイ質問、OKかなあ、と迷ったが、スタッフは、豪快に大丈夫ですよ、と言う。もともとの私が書いていた質問は少しアプローチが違ったのだが、「原さんが聞きたいのは、結局は性のことですよね?わざわざ遠回しに聞くぐらいなら、直接聞く方が原さんらしいですし、ゲストもちゃんとそれなりに答えてくれますよ」と。
まあ、軽いノリでいいんだから、と自分を納得させた。それに“どぎつい質問の原”が売りでもあったし、その売りを裏切ってはいけない、という“責任感”もあったし。
でも、驚くべき“生真面目さ”と言うべきか、彼は、キチンと恥ずかしがらず、逃げずに、自分のプライベートな部分を話してくれた。内容は、放送を聞いてもらうとして。
性の部分は、人それぞれ。だが、どんな内容であれ、性の話は“不思議感”がある。
対談が終わって、大きく私の心の中に残っているのは、彼は“実に様々なことについて考える”ということだ。それは感動するくらいに、である。彼は、現場に行く前に、台本上でカット割りを、4回くらい、やるのだそうだ。キチンと鉛筆で線を引いて。それが現場に行き、役者が動き始めると、割らなくていいんだ、と思ってしまう、という話には、笑ってしまったが。
ともかく、トークが終わって私はすっかり、彼が気に入ってしまった。旧知の仲、のような感覚だ。また、どこかで、じっくり話し込みたいものだ、と思っている。
(2016.2.1記)
待ちに待ったタイトルが正式に決まった。
「ドキュメンタリーは格闘技である 原一男vs 深作欣二、今村昌平、大島渚、新藤兼人」。
どうだろう? オモシロそう!って思ってもらえるだろうか?
ドキュメンタリーを長年、作ってきた身からすれば、まさに「格闘技」という表現は、実感そのもの。ピッタシなんだけどね。
原稿も全部、入稿が終わり、ただいま校正ちゅうだが、その作業も終わり。
表紙に使用する写真も、横田弘と新宿・歩行者天国へ出かけた時、横田弘が自分の詩を聞け、と“暴力的に観客を巻き込む”ためのアクションシーンを地下プロムナードでロケを敢行したときのスナップでいこう、と結論が出た。
20年来の念願、いや、悲願と言っていい、その本が、刻々と世にでる、その日を待っている、というところである。
私としては、現在、私だけ(ほかに関係者を含むけれど)が面白さを知っているわけだが、一刻も早く、この面白さを多くの人に知ってもらって、共有したいのである。
本の末尾に、「CINEMA塾」でゲストとしてお呼びした方々のリストを載せておいた。今さらながら、凄い方々に来ていただいたものだと我ながら感心する。原則として、ゲストの講座は記録をとってあるので、第2弾、第3弾と出版できる材料はあるわけだ。第1弾が売れてくれれば、それも夢ではなくなる。
この出版を記念して、渋谷シネマ・ヴェーラで、この本の内容とリンクする形のプログラムを組んでの上映が始まる。
そもそもの“言い出しっぺ”の私(たち)の作品はもとより、4巨匠の作品もラインナップされている。各巨匠と縁の深いゲストもお呼びする。是非、ご期待を!
(2016.1.26 記)