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原一男の日々是好日 ―ちょっと早目の遺言のような繰り言―

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「ノンフィクションW ゆきゆきて、原一男
~反骨のドキュメンタリスト 70歳の闘争~」
WOWOWの私が出演した番組について考えている。 私自身、納得いかないことが多すぎるくらいにある。 どこが、何に、私は納得できずにいるのかを、自分でもハッキリとつかんでおきたい。

  もっとも基本的なことだが(と私は考えている)、宇部・山口を訪ねた目的に関して。
※ロケにいくことの判断に関しては番組の制作者たちに委ねられている。だが、現地で“何をするのか?”の意志は私の判断である。現地で撮れた映像を使用する、しないの選択は制作者側にある。

  1.  防空壕で産まれた、ということを私は聞いているのだが、その防空壕がどこにあったのか?「ここにあったんだよ」とそのポイントを知りたい、と思ったのだ。
空襲警報が鳴り、臨月間近の母と、母の姉(※以後は、山田の叔母さん、と表記します)が防空壕に避難した。そこで産気づいて私が産まれた。山田の叔母さんは、女手一つで子どもを育てるのは、こんな時代では大変苦労するだろうから、今ならこの赤ん坊の鼻をつまんで死なせても誰も怪しまないから、と母を説得。で私の鼻に手をかけたとき、母が「やめて!」と叫んだ。「その子を育てるから!」と。
こんなエピソードを聞いている私としては、是非、その防空壕の場所を知りたいと強く思ったわけである。

2.  子ども時代(産まれてから炭鉱がつぶれて暮らしが立ち行かなくなる小学校3年生の頃まで)に育った炭鉱住宅が現在、どう変貌したのをしっかりと確認したかった。大人になって(成長して東京へと出ていく)から全くそこへ立ち戻ってないわけではない。そこが変貌していく様子を断片的に知ってはいる。だが2年前だったか、久しぶりに立ち寄ったときに、そのあまりの変貌ぶりにショックを受けた。地形すら変わっていたからだ。記憶に残っていた断片すらなくなっていた。その時、まさにそこで暮らしていた、という場所を見つけきれなかったのだ。今回は、なんとしてでも、ここに炭鉱住宅があったんだよ、と時間をかけて探したかったのだ。

  その2ヶ所に関しては、Dが是非行きたい、と言い、もちろん私も行きたかったから、じゃあ、ということで実現した次第。

  ロケは、まずは防空壕探しから始めることに。山田の叔母さんも亡くなっているので叔母さんの息子、私の従兄弟になる、賢治兄(賢ちゃんと表記)が叔母さんから、この一件を聞いて知っているというので、案内をしてもらうことに。結論から言うと、見つからなかったのだ。戦時中の防空壕が今も残っているわけがない。が、ここにあった、と分かれば、それでよかったのだ。がそれが分からなかった!(詳しい経緯は、別の稿で書くつもりなので、ここでは省略します。)私は、すっかり落胆。
それどころか、私の産まれた日付は“昭和20年6月8日”だが、当時その辺りに住んでいたという人に取材をしたのだが、宇部への大規模な空襲は、7月2日。6月8日はまだ、戦況としては緊迫してなかったハズ。臨月間近の女性を防空壕に連れて避難するような状況ではなかったと思うと言われ、私の誕生日自体の日付が危うくなってくるのか?と、新たな疑問が生じてしまった。

  で、作品の中では、この防空壕探しがスッポリ、不使用になっている。山田のウチへ行くと、賢ちゃんと、その妹の節ちゃん(私より2才年上でとても可愛がってくれた)が待っててくれて、10数年ぶりの再会になった。この再会のシーンはある。が、肝腎の防空壕探しには触れられていない。だから単に、従兄弟たちと久しぶりの再会を喜び合う、という内容になっている。

  実は、防空壕探しの前に山田の叔母さんのお墓参りに行った。私は叔母さんの墓参りは初めてなのだ。ホントに親子で食べることさえままならない極貧状態の時期に母は、この山田の叔母さんのウチに私を預けたことがあった。したがって従兄弟たちとは“兄弟のように”一緒に暮らしたことがある。だから従兄弟たちと私の間には、ひとしお肉親のような感情が存在する。山田の叔母さんも、私の鼻をつまんで死なそうとしたことの罪悪感があり、それを詫びるつもりもあったのだろうか、ホントに親身に世話をしてくれたのだ。私には、鼻をつまんで死なそうとした一件を聞いたときにも、叔母さんに対して非難する気持ちなんて露ほども起きなかった。山田の叔母さんの墓の前で、感謝の気持ちで、ただただ泣いていた。このシーンもない。

  つまり、作品の中で、肝腎の防空壕探しに触れてないので、何故、宇部を訪ねたのかが分からない。
作り手の側からすれば、見つからなかったから、活かしたくても使いようが無かったと判断した、ということになるのだろう…かな。

  二つ目の炭住探し。これもけっこう歩き回って探したのだが、今や、地形まで変わっていて、記憶を辿ろうとしても、混乱するばかり。見た目に新しい一戸建ての家が並んでいるのだが、たぶん、土地をならすために掘り起こしたりしたのだろう。なおかつ、すぐそばに高速道路が走っている。道路を作るわけだから、かつて凹凸のあった地形をならす工事は当然、大掛かりにやるだろう。それに道幅もかつてより広くなっている。これも拡張工事をすれば地形が変わってしまうことはあり得る。そんなこんなで、地形自体が変容してしまっていて、まるで“よその土地”に来てしまったかのような感じなのである。

  そんな中で、ウロウロ、真夏の炎天下、何度も行き来しながら、記憶を絞り込み、「ここだろうかな? いや、この辺りとしか考えようが無いな」というポイントを特定した場所は、今や、背丈もあるほどに伸びた雑草が一面に広がっている。故郷が荒廃して…とはよくある言い方だが、その荒廃した痕跡すら無いのだ。幼児の頃の記憶を拒絶されたかのような虚無感、寂寥感。雑草の茂みを見ながら、心の中がポッカリと穴があいてしまったような。無性に哀しくて涙が湧いてきて仕方なかった。
この一連の動きも、作品の中には使われてない。 作り手の側からすれば、ここでもまた、ここに在ったという痕跡でもあれば、シーンとして活かしたかもしれないが、何もなかったから、外しました、ってことなのかな?

  整理しよう。二つの目標。「防空壕探し」と「幼少期に暮らしていた炭住の跡」探し。二つとも“無かった”。そう、具体的な“もの”や“当時を知る人の証言”やらは、無かった。具体的なものが無いから、映像としては描きようがない。だからシーンとして作りようがない。
この想像が的を得ているかどうか…。当たっているとして…撮られる側の私としては、無いことが、私の精神にどういう影響を及ぼすのか?たしかに具体的なブツは無いが、無いことが、私の精神に与える影響は大いに在るのである。

  正直に言うが、防空壕が見つからなかったことの悲しみについて、Dが何故聞いてくれないのか? 聞いて欲しかったのだ。がDは聞いてくれなかった。炭住跡もそうだ。雑草を見つめながら故郷を無くしてしまったツラさを聞いて欲しかった。話したかった。が、Dは聞かなかった。ブツはなかったが、私の心の中の“叫び”は、まぎれもなく、在ったのに。

  翌日、山口へ移動して母親の墓参り。私は意を決して、防空壕探しの顛末、見つからなかったことを、声を出して墓石に水をかけながら語りかけた。「母ちゃん、防空壕を探したけど見つからなかったよ。母ちゃんが生きているときに聞いておけば、よかったねえ」。沈黙では分かりにくいだろうと考えての、私の精一杯の演技だった。Dに対してのサービスだった。くどくどと声に出して話した。このシーン、短く使われている。が、防空壕が見つからなかったという、私にとっての大切な箇所は、使われていない。

  ロケが終わって帰路についたのだが、私には、これでストーリーとしてどう構成するんだろうか? と不安がいっぱいだった。Dは「撮れました!」と喜んでいる。が、目標としていたものは見つからなかったわけだし、これじゃあ編集に困るだろう、と思い、その不足分はインタビューという形で答えるから、と提案したのだが、「いえ、もう十分です」と。
防空壕が見つからなかった、炭住の痕跡がなにもなかった、という問題は、ドキュメンタリーを作る意味について大きな問題を孕んでいる、と私は思う。具体的なブツ、それについて証言してくれる人、などがあれば確かに分かりやすい。が、無かったから、そのシーンを構成しなかった、という判断でいいのかどうか? なぜならば、そのことがカメラを向けた人物にとって大きな位置を占めているときに、やはり、何らかの表現上の工夫があってしかるべきではないのか?
「見えない“こと”“もの”を、どう可視化するか」が映像作家の最も重要な課題ではないのか? 「見えないものを見えるように、どう描くか」が、映像作りの最大の面白さではないのか?
私のドキュメンタリー論になるが、ドキュメンタリーとは、人間の感情を描くもの。感情の起伏がドラマを生む。その流れがストーリーだ。それらを通して時代の矛盾やら、仮題が浮かび上がってくる。その感情を私自身が、はき出した、と露ほどにも思えずに終了した。その結果が、この作品だ。だから、とても“悔しい”という想いが今でも胸の中を渦巻いている。

  撮れた映像を、どう構成をたて、編集しようが、それは制作者側に権利がある。作り手と、撮られる側の思惑の違い、という問題は、よく起こりうること。
それは私も、百も承知。だが、最初にDが「原一男を知りたい。原一男を描きたいんです」と言っていた、彼によって“原一男像”として捉えられた私は、作品を見て、「何、これ!?」という感想しか抱くことができなかった。私の思惑と違っていても、「なるほど。彼には、こんな風に見えていたのか」と納得できれば、いいわけだ。否定的に描こうが肯定的に描こうが、それはそれでいいわけだが、単に、「何、これ?じゃ、それって、やはり“失敗作”じゃないのかなあ!
(2015.9.16)    
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